世相

午年に想う

午年に想う

仮に世界的な恐慌や戦争が勃発して日本経済が破綻したら、現金も証券も紙くずになって年金どころの話ではなくなる。手元に残るものは幾らかの食べ物と暑さや寒さから身を守る衣服や雨風を防ぐ家屋だけである。クルマなども燃料がないと動かないし、そうなれば、畑でも借りてイモや野菜を自作するか、終戦当時のように家財と食べ物を物々交換して命をつないでいくことになる。

つまり、私達の生活は社会的な信用の上に成り立っている訳で、その信用が失われればお終いである。極論すれば、お金や証券や不動産などは、国あっての資産であって、国への信頼が揺るぎ信用が失われればその価値は消滅するのである。

さらに、私達の日々の想いも、覚めてみれば、そんな不安定な世相に大きく依存していて、想いの多くは世相が織りなす幻想と言っても過言ではない。しかし、仮にそうであっても、少なくとも想いとは、世相の焼き直しではなく、己の存在を証しするものでなくては、人生は生きるに値しないように思う。

よく本当に大切なものは見えないと言われるが、それは、世間の常識にばかり捉われていると、いつの間にか嘘偽りに満ちた世相も真実になり、いつかしら知らぬ間に、世相が己の想いとなってしまうからだと思う。短く儚い人生である。例え周りの人に褒められ社会の称賛を浴びようとも、己の想いに納得できずに世相の中に埋もれてしまう日々であったら、それは意味のない人生だと言わざるを得ない。

そんな想いに、「真なる己の想いとは一体何なのか」を考えるに、それは感情とか情動とか言われるものではないかと思うのである。つまり、身体に異常があれば、腹痛や頭痛や発熱があるように、感情や情動はある意味心の痛みであるような気がするのである。

しかし、一般的に感情や情動に流される人はお天気屋さんなどと言われ、周りの人から疎んずられ、あまり評判がよろしくないことが多い。また、俗に「病は気から」とも言われ、気を病むと病気になるような気もする。そんな心と身体の関係は、正に拮抗する関係であり、そのバランスを取ることが健康の秘訣であり、多くの人と良好な関係を維持するコツだと言う。

しかし、そうは言っても、私達の想いは意図も簡単に時空を超え、銀河系を遥かに超える広大な宇宙空間を常に彷徨い移ろう存在であって、よく巷に言われる「平常心」とか「不動心」などと言う動かぬ心の状態とは無縁の存在であるかのように思える。いや寧(むし)ろ、そんな動かぬ心の状態の方がおかしいのであって、人間はもともと感情や情動に支配されて生きるようにできているように思う。

さらに、世相とは日ごろの感情や情動が寄り集まってできるもので、決して「平常心」や「不動心」などと言った特殊な心の働きによって生み出されるものではない。ゆえに、そんな心の働きを追い求めてもあまり意味がなく感情や情動を素直に受け入れ、その想いの意味を落ち着いて考えてみればこと足りるものと思う。

そんなことから、世相と想いはある意味で表裏一体のものと思われるが、少なくとも、世相に生きるよりは、己の想い に生きる方が悔いが残らぬ人生を送ることになるような気がしてならない。

それには、己の想いが己の存在を証し得るものとなり、矛盾と嘘偽りに満ちた世相を正していくものとなるよう、日々努力を重ねて行こうと想う次第である。

jpjapon について

3匹の犬と優しいけど時々意地悪な元気なおばさんと桃やブドウに囲まれた田舎で暮らしています。音楽と写真が大好きなパソコンフリークです。日々の想いを、聖書の御言葉や御仏の教えを交えて仲間と語り合うのが大好きです。平凡な日常から垣間見る世間の出来事を、自分流に書き綴っていきたいと思います。
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