波動

ご案内のように、物理学はニュートン力学に代表される古典物理学に始まり、光速で物質が移動する世界を扱う相対性理論や、粒子と波の両方の性質を合わせ持つ電子や中性子や陽子、光子やニュートリノ、クォークやミュオンと言った極小の世界を扱う量子論の3つの分野に分けられると思うが、量子は粒子と波動が絡み合い、位置と運動量が決まらないようで、観察すると位置と運動量が変わってしまうらしい。そんなことから、ふと他人の目線が気になったり、いつの間にか想いが通じていたりすることも量子レベルでの働きがあるとすれば合点がいく。

さらに、そんな極小の量子からこの世界が成立っているとすれば、全ての物質が波動でつながっていて、私達自身も身の周りのものと相互に波動を交換し合って生きていると思われる。そして、さらに言えば、何らかの波動によって宇宙の塵が組織化されたものが私達や地球ではないかと思う。

つまり、私達の本質は波動であり、その波動で現象界の量子が引き寄せられ組織化され結びついて私達の肉体が形成されており、量子レベルでの研究が進めば、遺伝子どころか量子レベルでの治療も夢ではなくなるものと思う。

そんなことから、近ごろは、量子テレポートの可能性やパラレルワールド(平行宇宙)の存在が世間で話題になっているが、聖書や仏典や古事記などの世界を読み解くと、何やら量子論の世界を暗示しているかのような記述がある。

そんなことから、物事を短絡的にしか捉えられなくなった私達は、進化しているどころか退化しているような気がする訳で、相手の気持ちを読み解く手間を省き、お互いに察し合うこともしなくなった私達は、言葉や所作による波動の交換もなくなり、これでは仲良くなるどころか争いがふえ、不毛な愛が生まれたり、未婚や離婚が増えたりしてもしょうがないような気がするのである。まあ、全てが不自然なライフスタイルによる意識のズレによるものと思う。

そんなことから、面倒でも手間暇掛けて、生まれながらにして持つ「波動を読み解く能力」を呼び戻し、量子レベルで良好な関係を築き上げることが、この世の真理に近づく秘訣だと思われるが、そんな視点に立てば、正に悠久の時に遊ぶ万葉の世界にこそ、私達の原点があるような気がして成らない。

まあ、今日のように幾ら便利で快適になっても、夜道を歩いて山を越し恋する人に会いに行く方が、物理的には不便で不快であっても、遥かに親密で濃密な想いの中にあった訳で、これこそが愛の本質であり、私達の本来の姿だと思う。

そんなことから、 想いを波動として伝える言葉や音楽には唯ならぬものを感じるが、そんな中、世界の言語の原点が日本語にあるような話も聞き及び、どうも見えぬ潜象界や潜在意識などの時空を超えた世界と繋がるドアや扉が言葉らしく、そんなことから、ヨハネの福音書の一節には…

「はじめに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。この言葉は、初めに神と共にあった。万物は言葉によって成った。成ったもので言葉によらずに成ったものは何一つなかった。言葉のうちに命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」

と、全てのものが波動によることを暗示してかの記述がある。そんなことから、教会で歌われる賛美歌や寺院の念仏や神社の祝詞などは、現象界と潜象界の結界を超えるドアや扉ではないかと思う。

そんな訳で、外に目をやれば、季節は春を飛び越え初夏の様相を呈している。折しも、学生時代の友人の中には、未だに早稲田の公開講座に年間40万も掛けて通っている友人もいて、聞けば北海道や九州から飛行機や新幹線で通ってくる人もいるようで、先日のセミナーもそうだが、時代の変化を何とか新しい切り口で読み解こうとする意欲や意志には、知己の間柄のような親しみを感じる。

そんなことから、今年は少し角度を変えて横浜や湘南の夜空や波に遊び、時空を超えて波動を求めてみようと思う次第である。

jpjapon について

3匹の犬と優しいけど時々意地悪な元気なおばさんと桃やブドウに囲まれた田舎で暮らしています。音楽と写真が大好きなパソコンフリークです。日々の想いを、聖書の御言葉や御仏の教えを交えて仲間と語り合うのが大好きです。平凡な日常から垣間見る世間の出来事を、自分流に書き綴っていきたいと思います。
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