役割

実業家であり著作家や投資家やタレントでもある堀江貴文さんが、「自分のことだけ考える 炎上する者になれ」と言う著作の中で、「 バランスの良い人は、ほどほどのものは作れるかもしれないが、ほどほどのものが市場で生き残れるほど、ビジネスの世界は甘くない」と書いているが、グローバルな時代に生き残る言葉として参考になる。

まあ、「いじめっ子、世に憚る」ではないが、嫌われるほど自己主張していかないと(自分を出していかないと)生き残れない現実を言っているのだと思うが、そんな社会を理想として生きることに、果たして意味があるのだろうか。甚だ疑問に思う。

まあ、 デカルトが言うように「我思う、ゆえに我あり」とすれば、全ての出発点は自分にある訳だから、無意識や潜在意識の中に自らが両親を選び、産まれ、自我に目覚め、自己選択と自己決定と自己責任と言うmanagement cycleの中で、全てが完結する人生を送ることになる。まあ、今日的なグローバルな世相には、実にしっくりくる考えだと思う。

しかし、現実に私達は共同体と言う他者の意識(他者や社会の評価や承認)を鏡として生きている訳で、自分は他者の意識や評価によって生かされていると考えられないこともない。

さらに、生き物は、誰かの意志(神の意志や両親の想い)によって産まれ、伴侶を得て、子育てして子孫を残す営みの中で、何らかの役割を果たして死んでいくものとすれば、家族や一門、職場や地域社会や国家の存在意義や関係や役割も、それなりに考えられる訳で、日本が神武天皇から2678年(2018年現在)脈々と続く世界に稀にみる独立国家として存在することには、計り知れない先人の知恵が伺える。

時に、気が向くと私は神社に参拝するが、神道はお仕着せがましくないところがいい。もちろん、神社にはそれなりの仕来りがあると思うが、教理や経典を重んじるキリスト教や仏教などとは明らかに違う。

まあ、国家の主権も危ぶまれるグローバルな今の時代にあって、私達日本民族の血統の象徴として、今日まで2678年皇位が継承されていることは驚異であるが、まあ時代が時代だから今後のことは分からない。

そんな中、何事も「結果が全て」で、能力や才能が重視され、過程や経験が軽んぜられる世相に、時には反則や不正も正当化される時代の変化に違和感を覚えるが、そんなところに、スルガ銀行の不正融資ではないが、偽装社会に通じる道が開かれてしまう訳で、偽装建築や手抜き工事や偽装食品からフェイクニュースや偏向報道や振り込め詐欺まで、「 騙すより騙される方が悪い」などと言った自己責任論まで飛び出し、実に恐ろしい時代であり社会である。さらにいろんな分野で、ジャンルやカテゴリーを超えたコラボレーションが結構不用意に行われていて、常識を無視した不自然さが際立つ時代であり社会である。

まあ、物が溢れ豊かな少子高齢化社会を向え、お金やモノへの価値の集約が進み、インテリの中には、結婚や子育てはリスクと言う人も現れる中、女性の社会進出や地位の向上から、子育てと恋愛が分離し、セックスが娯楽化して、今やセックスや結婚が商売やビジネスや処世術になっている感じもする。

まあ、そんな恋愛市場の中、独身を貫く人もいれば、ほどほどに子育てをして、ほどほどに楽しんで死んでいく人もいる訳だが、唯一言えることは、人は裸で生まれ裸で死んでいくことで、人生は金や権威を頼りに生きてみても意味がないと言うことである。

まあ、自分に生きれば、恋愛もLGBTでも娯楽でもいいと思うが、私的には娯楽でするような恋愛はしたくない。破産や破綻も承知で命懸けで突き進むような恋愛でなくては、人を愛する意味が見つからない。

まあ、人を好きになると言うことは、限りなく犠牲や契りが求められるもので、私的にはそんなことにも耐えられる稼ぎも技量もなかったことが、男として悔やまれる。

まあ、恋愛は、娯楽やビジネスでは夢も希望もない。夢や希望は、やはりほどほどに忍耐強く「和を持って」契りの役割に生きるところにある。

そんな想いに、つくづく信用や信頼の尊さを痛感する訳で、仮に国民栄誉賞をもらったとしても、後に犯罪を犯せば没収される訳で、やはり、自分に生きるもほどほどに、周囲に気を配りバランスと調和を大切に平凡に生きていく方がいいと思うし、私的にはそんな「和の社会」を、後世に引き継いでいきたいと思う次第である。

jpjapon について

3匹の犬と優しいけど時々意地悪な元気なおばさんと桃やブドウに囲まれた田舎で暮らしています。音楽と写真が大好きなパソコンフリークです。日々の想いを、聖書の御言葉や御仏の教えを交えて仲間と語り合うのが大好きです。平凡な日常から垣間見る世間の出来事を、自分流に書き綴っていきたいと思います。
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