主体性

私たちの生存に関わるどんな些細なことも、時間軸の外にはみ出たものはなく、因果の法則の支配下にある。

いかなることも、いかなるものも、生ずる以上は必ず原因があるし、原因がなければ、結果が生じることはない。無から有は生じないし、有から無は生じない。

過去から現在へ現在から未来へと、全てが否応なしに押し流され、主体性がないと同時に、主体性がないところに自我もあり得ない。

だから、私達が自我と呼び自己と称しているものは、真の自我ではない。そんな生存の在り方は、真の真我にとって、許し難い屈辱としか思えない。

全ての価値判断は、比較対照することで成り立っており、日々日常は喜んだり悲しんだり、奮起したり楽担したりしているだけで、自らの生存を「時の奴隷」として、隷属の苦しみや不浄や穢れたものと看做す人は稀である。

時が経てば、全てが色褪せ朽ちていく中に、常なることも安楽もなく、そこに生存の意味や理由は存在しない。

言い換えれば、真の自我は、時間軸から離脱した中にある訳で、 時間軸から離脱できない私達は、 日々日常の経験からいかなる要素を取り出しても、現世において、真の自我を組み立てることができない。

そんな訳で、仕事や趣味で自己実現などとよく言われるが、私的にはマンネリや惰性よりマシなくらいにしか思えない。

アメリカの心理学者マズローは、彼の自己実現論(欲求5段階説)の中で、「1生理的欲求 2安全の欲求 3社会的欲求と愛の欲求 4承認(尊重)の欲求 5自分に適したこと(好きなこと)をする欲求」の5つの欲求を掲げているが、晩年に、彼はさらに自己超越の階層をこれらにつけ足し、そこに至る人は2%ほどだとも言っているが、私的には、仕事や日々日常の動機づけには参考になっても、私達の生存の本質や在り方に鋭く斬り込むものは感じられない。

そんな訳で、今日は朝から清々しく、空は青く晴れ渡り、秋風に吹かれて、気分は爽快である。そんな中に、やはりオリンピックは、8月の猛暑を避け10月に行うべきだと思う。無駄なエネルギーを使わないで済むし、熱中症の心配もしなくて済むからである。まあ、スポーツの本質を逸脱した欲得と利権の祭典に、震災復興オリンピックなどと言ったりして、犠牲になるのは選手や被災者や主体性なき民衆であり、マスコミもマスメディアもそこをつかない。

総裁選も佳境に入り、改めて当事者意識を持ち主体性を持って、生きる意味を考えてみたいと思う。

jpjapon について

3匹の犬と優しいけど時々意地悪な元気なおばさんと桃やブドウに囲まれた田舎で暮らしています。音楽と写真が大好きなパソコンフリークです。日々の想いを、聖書の御言葉や御仏の教えを交えて仲間と語り合うのが大好きです。平凡な日常から垣間見る世間の出来事を、自分流に書き綴っていきたいと思います。
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