ご案内のように、最近は科学万能主義になっていて、多くのことが科学的な知見によって分析解析され社会の定説や常識になっている。しかし、よくよく考えてみると、科学も極論すればある条件下に成り立つ不確実な考察に過ぎない。
ところが、最近は数値化(見える化)することさえ無意味に思えることを数値化して、無理やり結論や方向性を導き出しているような節があり、科学信奉も行き過ぎるとバカバカしく思える。
例えば、いま世間で問題となっている毎勤統計の不適正サンプリングなども、調査経費の削減や手前を省くものなのか、あるいは、ある種の意図を持って操作されたものか分からないが、やり方次第では調査結果はかなり違うものになる訳で、そこに使われる指標やサンプリングや、また同じ認識に至るパラダイムが適正なものか、疑問と言えば疑問である。
そんなことから、仮に景気の動向を観るにも、学者やコメンテーターの話を聞くよりは、実際に現場の様子を眺めた方が、的を得たものが得られる訳で、実際にお金を持って、スーパーやコンビニに買い物に行ったり、他の人がどんな買い物しているかを眺めた方が、真実に近いものが得られるものと思う。
つまり、何事も現場主義に徹することが大切で、自分の目で確かめ、日頃から自分なりの洞察力を養い持論を持つべきである。なぜなら、嘘やプロパガンダで塗り固められた仮想現実ぽい今日の社会では、お金に目が眩んだ学者やコメンテーターのコメントやマスコミの報道より、自分の目の方が確かだからである。
そんな想いに、街を歩くと俄に「仁徳天皇とかまどの煙」の話が思い起こされたが、日本書紀にある臣民を「大御宝(おおみたから)」と呼び、自分以上に大切に思う心は、臣民を所有物とする他国の支配者や支配階級には見当たらない。
つまり、日本の天皇を頂点とする権威は、民家の煮炊きの煙をみて徴税を控える心にある訳で、そんな思い遣りの心をさておき、国民主権やら民主主義やら自由平等を社会の基盤に据えているから、今日のような世知辛い世相になる訳で、今の学校教育で、そんな日本の和の心をしっかり粘り強く教えていけば、弱い者イジメする輩はいなくなり、貧しくも自分にプライドが持てる日本人が育つのではないかと思う。
そんな訳で、物事は何事も現場主義に徹し冷暖自知を基本に据えて、目線を自在に変えられる知恵を持つべきで、そんな想いに、新天皇を中心に新たなる時代の幕開けに大いに期待し、新たな出会いを信じて頑張ろうと思う次第である。