非我

グローバリズムは一党独裁の共産主義に似ているところがある。 なぜなら生まれも育ちも生活環境も全く違う国や民族や人種が、仮に話し合いがうまくいき合意形成ができたとしても、一つの価値観や世界観でまとまるわけがないからである。

そんなまやかしの合意では、直ぐにメッキが剥がれてしまい、それを強引に推し進めれば、戦争や民族の殲滅を招くことになることは火を見るより明らかである。

また、今日では自由意志に基づく価値観や世界観が主流だが、悩みの大半は対人関係にあるとするアドラーの実践哲学にしても、また、苦しみは「無我、非我」による自我の誤認から生ずるとする仏教の教えにしても、さらにまた、自由意志の有無が問われるキリスト教の教えやその他の宗教思想からしてみても、千差万別、諸事諸説が入り乱れ、自由意志を肯定する根拠に乏しい。さらに言えば、そもそも自由意志の根底を為す私達の意識そのものが、認知症や人工知能における研究が進んでも解明されていない。

私的には、霊長類の長として、人間には自由意志による選択肢が創造主より与えられていると考えたいが、現実には自由意志の基にある意識の大半は無意識の誤認にあるらしく、自我に生きたり無理して無我に生きたりしようとするから、心の病を患うことになるらしく、事象や症状は把握できても意識の本質や正体は不明である。しかし、私達が非我なる存在に軸足を移せば、既に無意識の領域で私達は万物と一体であることが伺い知れる。

まあ、スマホの複眼カメラが、AI技術 により画像を重ね合わせ、一眼レフに匹敵する鮮明な映像を作り上げることはできても、私達の意識については、認知症の分野の研究が進んでも、明らかにされていないばかりか、デカルトの「我思う故に我あり」にしても、何故思うのか疑問が残る。また仮に意識と無意識の関係性が解明されたとしても、個別の意識への対応には難しいものがある。

さらに、そんな視点に立てば、巷で言う意識改革などは全くのナンセンスであって、組織や体制に都合のよい単なる動機づけに過ぎない訳で、体裁のよい搾取やごまかしの類に思えてくる。しかし、その一方、現実には自分に生きるより、己を捨てて他者に寄り添い奉仕や奉公に生きる方が、苦しみから逃れられるところもあって、感覚や感情の捉え方についても、兼ね合いが難しい。まあ、この辺りは、ケースバイケースであり、自分に生きたり他者に寄り添ったりしながら、生きていくしかないように思う。

そんな想いに、人生はつくづく「成り行き」だと思うが、そんな中にも、いくさをしなくなった武士の生き方を綴った「葉隠れ」の「 武士道と云うは死ぬことと見つけたり(常住死身)」の中に、人生を生き抜くヒントや秘訣が隠されているような気もするが、結局人生は、朝に夕に死を意識し、その場限りに精一杯生きることに尽きるようである。

しかし、全く見えぬ訳の分からぬ自分(無意識)もこれまた自分である。無碍に切り捨て邪険にすることもない。そんな想いに、今日も新たな出会いを信じて頑張ろうと思う。

jpjapon について

3匹の犬と優しいけど時々意地悪な元気なおばさんと桃やブドウに囲まれた田舎で暮らしています。音楽と写真が大好きなパソコンフリークです。日々の想いを、聖書の御言葉や御仏の教えを交えて仲間と語り合うのが大好きです。平凡な日常から垣間見る世間の出来事を、自分流に書き綴っていきたいと思います。
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