文化

文化芸術が哲学や宗教や道徳などと異なる点は、文化芸術が人間の根源的な想いや魔性を掘り起こし擬似的に開放し理性を理性足らしめるものに対して、哲学や宗教などは私達の本質から離れたところから作為的に私達をコントロールするようなところがあって、素直でない歪んだものを感じる点にある。

つまり、人間である以上、如何に清く正しくあろうとしても、そうはあり得ない訳で、どう足掻いてみても世俗を離れられないにも拘わらず、そんな生き様を棚に上げ、舌の根も乾かぬ内に、清廉潔白や正義を主張したり利益誘導に走る政治家や宗教家(組織)が多いからで、現代では政治や宗教は、民衆を救うものではなく、民衆を操り支配する道具と化している。

つまり、政治権力は経済活動や金融において、宗教や哲学や道徳はメンタルな側面から、私達を意図的に操り支配している訳で、一見道理に叶う道徳や倫理や理性であっても、彼らの恣意的な目的に利用されている節が見受けられる。

その点、愚かかも知れないが、多くの文芸作品には私達の偽りのない本音や本性が曝け出ていて、私達の感覚や感性に深く響くものがある。

まあ、簡単に言えば、行動が伴わない政治家や宗教家が本音や本心を隠し持った建前論を幾ら聴いても仕方ない訳で、そんな言葉に騙され操られ真面目に従っている民衆ほど馬鹿なものはない。

まあ、教師が自分の本心をぶつけられる学校教育ができないことも問題であるが、人間教育に欠ける今の教育現場には失望しかない。もっと、人間を曝け出す人間教育に教師も保護者も社会全体が命掛けで取り組まない限り、私達は一生、時の権力を傘に私腹を肥やす政治家や宗教家に操られ、彼らの奴隷となって生涯を送ることになりかねない。

以前、亡くなった立川談志師匠が、落語は「人間が常識化できないものを曝け出すもの」と語っていたが、常識でないところに私達の本質や本性がある訳で、それを肯定しつつも、まともに暮らす生き様に人生があり、面白おかしくある訳で、そんな生き様を共有できないものなどに意味はなく、興味も湧くはずもなく、そんな生活をしていたら、みんな元気がなくなってしまうのは当然だと思う。

まあ、同じことでも、人それぞれ全く意味が違う訳で、そんな一筋縄ではいかないところに人生の機微があり、私達の本質が隠れ潜んでいるのである。

そんな訳で、人生いろいろ、人それぞれ、男も女もさまざま、目的を見失い何処に流れ着くのかも分からぬままに、必死になって灯台の火を探し、当面の航路を決めて生きる自分が憐れである。

しかし、それが人生であり、神仏にも頼れぬものがあることを知るべきで、そんな現実を民衆を束ねる政治家や宗教家こそ身を持って示すべきで、人を利用することばかり考えていないで、自分自身の行動を今一度見直すべきではないかと思う次第である。

jpjapon について

3匹の犬と優しいけど時々意地悪な元気なおばさんと桃やブドウに囲まれた田舎で暮らしています。音楽と写真が大好きなパソコンフリークです。日々の想いを、聖書の御言葉や御仏の教えを交えて仲間と語り合うのが大好きです。平凡な日常から垣間見る世間の出来事を、自分流に書き綴っていきたいと思います。
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