梅雨に想う

聖書には「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。(伝道者の書3:11)

とあるが、もし私達に永遠の命を得る手立てがなければ、神が私達に永遠なる想いを授けても意味はない。

そんなことから、時空を征し永久に変わることのない真理である神の御子となるには、聖霊の器としての肉体をどのように活用して、真理に近づけばいいのか最近よく考える。

そんな想いに、梅雨入りの冴えない天気が重なって、今日は何となく気分が優れない。先日の運動会の疲れが残っている訳でもなく、どちらかと言えば体調は悪くないのに冴えないのである。

そんな中、話を元に戻すが、私達はアダムとイブが天国の園で神の掟を破ったことから、他の生き物と同様に霊的に死んだ状態で産まれ、その後のさまざまな生活を通して、神の真理に触れ霊的に生かされるものになると言うが、運良く聖霊を宿す器になったとしても、如何にその肉体を活用して、神の真理に近づくかが大きな課題である。

ところで、以前富岡八幡宮にお邪魔した時、社会科見学で訪れていた都内の小学校の学童を前に、時の宮司さんが「皆さんは7歳までは神様の御子なので、神様が守ってくれますが、その後は自分達で考えて自分を守らなくてはならない。」と話していたが、

昨今の高齢ドライバーによる交通事故で亡くなった子供さんや川崎の無差別殺傷事件の被害者の子供さんなどは、富岡八幡宮の宮司さんの話しや聖書にも同じような記述があることから、地獄に墜ちることはないと思うが、もし仮に青森の恐山の賽の河原のような寂しい場所で、一人小石を拾って石積みしているようなら、神も仏もないと言わざるを得ない。

また、親の虐待から死に至った子供さんや、年間18万件を超える水子なども、一応に成仏するとは言うが、その一方で、その原因を創り出した当事者の罪は重く、大きく改心しない限り救われることはないと思う。

いずれにせよ、先ずは森羅万象を通して神仏の御業に気づき、私達の肉体が聖霊を宿す器であることを認識することが大切である。しかし、その後は聖霊の器である肉体のあり様について、単に教会や仏門に入り教理経典に従えばいいと言うものでもないから、難しいものがある。

なぜなら、聖書や仏典の教えは真理であっても、私達は世俗の世界に暮らしている上、教会や仏門の中には、利益誘導に走り真の教えと乖離したものもあるからで、さらに同門同族に群れることが、与えられたタレントを用いることになるとも言えないからである。

そんなことから、私的には、札幌農学校のクラーク博士の言葉「少年よキリストにあって大志を抱け(Boys, be ambitious in Christ)」を日々日常の指針にするくらいが無難に思うが、その真偽は定かではない。しかし、それにしても、今日の天気はいただけない。

そんな訳で、今日は昨夜急いで仕上げた運動会のshort movie の音楽が、何となくシックリしないので Remakeしてみようと思うが、動画や写真に写し出される子供達や保護者の顔や様子を伺うと、つくづく「若さは宝だ」と思う。

孫を通して、そんな若い人達と知り合い、言葉を交わす喜びは、正に神様の恵みである。すべてに感謝して、皆さんのお役に立てるよう、健康に留意して頑張ろうと思う次第である。

jpjapon について

3匹の犬と優しいけど時々意地悪な元気なおばさんと桃やブドウに囲まれた田舎で暮らしています。音楽と写真が大好きなパソコンフリークです。日々の想いを、聖書の御言葉や御仏の教えを交えて仲間と語り合うのが大好きです。平凡な日常から垣間見る世間の出来事を、自分流に書き綴っていきたいと思います。
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