祈り

「蓼食う虫も好き好き」と言う言葉があるが、趣味や道楽は人それぞれ、さらに凝れば凝るほど、その魅力に取り憑かれるもので、リタイヤして早4年、最近は完全に昔の殻から脱皮したような気がする。

まあ、時代は生涯現役が持ち囃され、私の年齢になってもバリバリ仕事をしている人も多いと思うが、私はパンの糧に仕事をしてしまったので、もう仕事をするつもりはない。

しかし、今は自分の趣味を通していろんな方々と交わりがあり、やはり、時間と愛はお金では代えられないことを深く悟った。

フルタイムで時間が使え、誰に遠慮も気兼ねも遠慮もいらない。人の顔色を伺ったりお世辞を言う必要もないし、嫌なことはまずしない。実に爽快快適そのものである。

ところで、そんな生活をして気づいたことだが、如何に私達は世間の目や常識を気にして生きているかである。川を渡るに重宝した小船を便利だからと言って、生涯背負って旅を続ける戯け者を見たら、誰もが笑うだろうが、そんな戯け者が私だったのである。

まあ、仕事はお金をいただく限り、お金と引き換えにいろんなものを犠牲にする訳だが、その最たるものは時間と愛である。

共に分かる形で表せないものだが、心震わせる想いをひと時でも持てる幸せは何ものにも替え難い。聞き流せばそれだけのことだが、和音や旋律に秘められたテーマは、時空を超えて、私達に語り掛けてくる。そんなプレシャスな時を体現できる自分は、本当に幸せだと思う。

ところで、そんな視点に立てば、すべての価値の源泉を労働にあるとするマルクス的な発想は、一見すると富の分配からして正しく公平や平等に思えるが、時空を超えたその場の調和やハーモニーを欠くようなところがあって、差別や偏見、分断や分離につながるイデオロギーでもある。

仮にでたらめなものになっても、気持ちさえ確かなものであれば、作法や形式や決まりなどどうでもいい訳で、下手なイデオロギーや宗教観こそ、諸悪の根元である。

事例を上げれば、偶像崇拝を忌むものとするキリスト教徒は仏式の葬儀を遠慮したり、お焼香をしない人が多いが、そんなしきたりや教理経典に囚われ、自分だけ救われたいと思う心が寂しい。私的にはもっと素直になればいいと思う。キリスト教はそんなちっぽけな寂しい宗教ではないはずだし、聖書の記述には確かに未来がある。

まあ、キリスト教に限らず、祈りや想いは万物との霊的な交わりでもあり、魂の呼吸である。そんな想いに、時空をいとも簡単に超えられる日々日常に、改めて感謝したいと思う次第である。

jpjapon について

3匹の犬と優しいけど時々意地悪な元気なおばさんと桃やブドウに囲まれた田舎で暮らしています。音楽と写真が大好きなパソコンフリークです。日々の想いを、聖書の御言葉や御仏の教えを交えて仲間と語り合うのが大好きです。平凡な日常から垣間見る世間の出来事を、自分流に書き綴っていきたいと思います。
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