天皇陛下が内外に即位を宣言する「即位礼正殿の儀」が昨日22日の午後、国事行為として皇居宮殿で執り行われた。陛下は玉座「高御座」に立ち「国民の幸せと世界の平和を常に願い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としての務めを果たすことを誓います。」と述べられた。
また、夜には同じく国事行為にあたる「饗宴の儀」が開かれ、海外からの賓客と和の高級食材を駆使した絢爛豪華な祝宴が執り行われた。
そんな昨日は、朝方は生憎の雨に見舞われ、何やら不吉な予感もしたが、それでも次第に青空が伺えるほどに回復し、万世一系の神々が新たな日本の舟出を祝福してくれたのかもしれない。
しかし、ここで全く見方を変えれば、天皇制自体も象徴天皇とは言え、神格化された絶対君主制であり、国の安寧と国民の幸せを願う国民の象徴として、国政の基となっていることは確かである。
まあ、二千年以上も続く皇室の絶対的な権威は恐れ多く何人も犯し難く、北朝鮮の主体思想や中国共産党の中韓思想など、とても太刀打ちできるものでない。また、ヨーロッパや中東の元首やバチカンの法王やイスラムやギリシャ正教会の権威にも一目置かれる存在だと思う。
しかし、そんな神代の想いを伝える皇室の歴史絵巻にあっても、所詮天空の祭りごととにははど遠く、見えぬ想いを現世の営みに再現しただけのことで、人間が営む以上、不浄なものを拭い去れる訳がない。
なぜなら、絢爛豪華な宮中の晩餐も所詮は腸内の細菌や微生物の餌となり、汗や垢や糞尿に化する不浄な営みに終わる訳で、穢れなき潔き天空の営みには程遠いからである。
しかし、そうとでもこうとでもして、穢れや不浄なものを拭い去らねば、全てがそれこそ糞尿に塗れた野獣の営みに堕ちていってしまう訳で、人間の欲望には果てしないものがある。
まあ、これからどんな世の中になるものか楽しみだが、少なくとも現世における如何なる権威も、私達の理想や欲望を形にしたものに過ぎないから、そんな想いに走り過ぎるのも危険である。往々にして、理想が欲望となり、表裏ある偽善なものになってしまうからである。
そんな訳で、今アメリカでは、余りにも巨大化したGAFAを解体する動きもあるようだが、そんなことからも、世界制覇を狙うのは国だけでなく、国際金融資本や宗教や巨大企業など、形は変われど、その本質(覇権主義)は変わらない。
そんな想いに、私的には現世の権威はそれとして受け止め、大自然の営みを師と仰ぎ、愛と正義と勇気を信じて頑張ろうと思う次第である。