自由

世界は、自由・平等・民主主義・法による支配を共通の理念や価値観として、表向きは差別や偏見のない社会の実現を目指しているやに見えるが、実際は武力や金融や宗教による世界制覇にしのぎを削っているのが現実である。

つまり、アングロ・サクソン系の軍産複合体による武力覇権、バチカンやその派生宗派による精神的な世界制覇、さらにユダヤの金融資本による世界の植民化が、手変え品変え繰り返されているだけの話しで、対抗すべき手段なき個人としては、人知を超えた神仏に縋らざるを得ないことも悲しい現実である。

そもそもサタンの嘘に唆され、神に背いて智恵の実を食べ、霊性と永遠の命を失ってエデンの園を追われたアダムの血を引く私達は、死すべきものとして霊性を失って生まれてくる訳だが、そんな人間の原罪がイエス・キリストを信じることで許され、霊性の復活と永遠なる命が得られることは聖書の記述にある通りだが、そんな人知を超えた話しには確たるエビデンスもなく、只管信じるとするのは至難の業である。

しかし、私達がいつも何処かに何かを忘れているような虚しい感覚を覚えるのは、眠っている霊性や永遠なるエデンへの消し切れぬ記憶によるような気もする訳で、私達の本質や本性は、私達の顕在意識でなく、私達のDNAや潜在意識に深く刻まれているような気がしてならない。

しかし、もし仮にそれが真実であり真理であったとしても、宗教にはイスラム教もあれば仏教もあり、それぞれにユートピアが存在する訳で、極めて個人的な感覚や意識レベルの問題であるようにも思える。

まあ、現実には同じ考えの人が集まり、牧会や檀家やサンガと言った集団組織に組して行動や活動を共にしている訳で、そこには神世の神聖なる営みがあるとは考え難い。

結局、それらを率いる組織の理論によって支配する側や支配される側にならざるを得ない訳で、人間は群でなくては生きられないことから、何処まで行っても、地上のサタンの掟に従わねばならぬ存在ではないかと思う。

そんな想いに、世間様から身を引いた隠居の身としては、微かな望みを持ちつつも現世の営みに命を繋いでいる訳で、少なくとも、本音と建前が混じり合う偽善を強いられぬことだけでも救いである。

そんなことから、残されし日々は、天空の主なる神仏に想いを繋ぎ、祈りを通して神仏の啓之を受け、愛と正義と勇気を信じて頑張ろうと思う次第である。

jpjapon について

3匹の犬と優しいけど時々意地悪な元気なおばさんと桃やブドウに囲まれた田舎で暮らしています。音楽と写真が大好きなパソコンフリークです。日々の想いを、聖書の御言葉や御仏の教えを交えて仲間と語り合うのが大好きです。平凡な日常から垣間見る世間の出来事を、自分流に書き綴っていきたいと思います。
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