終わり

何もかも終わりがあるから、夢や希望があるのであって、終わりがなければ、まさに生きる屍である。

そんな視点から、世間を眺めてみると、即座に男女の仲が頭に浮ぶが、これとても、様々に形を変えて続いているだけの話で、世間で語り継がれる美談や夢物語は憧れであって永遠に続くものでないことは、ご案内の通りである。栄枯盛衰は世の習い、夫婦、親子にあっても諸行無常の世界にあって久しからず危ういもので、決して執着してはならぬ最たるものの一つと言える。

さらに、宗教やスピリチュアルの世界では、霊魂は死滅することなく輪廻転生を繰り返し永遠に生き続けると言うが、そんなことになったら大変である。

世を儚むとか絶望とかと言った話ではないが、何事にも終わりがあり、霊魂でさえ終わりがあるからこそ、夢と希望に生きられるのであって、生命体としての役割や使命は、私的には当の昔に子や孫にバトンタッチしている訳で、その意味からすると大抵の大人は生きる意味を失っている。

その一方、人生100歳時代を迎え、人様にご迷惑や厄介にならぬよう健康に長生きすることに執心している訳で、人間ほど愚かな生き物はいない。そんな愚かな人間に、お釈迦様は「輪廻転生を繰り返さぬ秘訣」を説いた訳で、永遠の命を説いた訳ではない

簡単に言えば、未練を残さず引き際をきれいにすることで、いつまでも物事に固執し、妄想や妄執の囚われの身にならぬヒントに気づくことが御仏の教えに沿うものではないかと思う。

そんな視点から、今回のコロナ自粛引きこもり生活を省みるに、得たものは実に大きい。なぜなら、強制的に今までのライフスタイルや生活パターンが変わらざるを得なかったからで、身辺整理と家事労働にこれほど多くの時間を費やしたことはなかったからである。

そんな新しい日常の中に、忘れかけていた日常や、新たに気づいた日常もあって、単なる物の片付けに終わることなく、生活意識や人間関係においても多くの気づきがあり、これまでの生活意識をリセットしたように思う。

そんな中、いつもお座なりにしていたお掃除や料理についても、自分なりにかなり極めた気がする。つまり、埃ひとつない生活をしようとすると、モノ一つ置くことも飾ることも掃除が楽なように考えるようになったからで、料理なども料理しながら鍋釜を洗ってしまうようになった。

そんな、断捨離の極みのような生活から、「物事の終わり」について、自分なりに深く感じるものを得た気がする。

まあ、生活全般にわたってリセットし、何事にも終わりと始まりを意識して取り組むようになったように思う。

刹那的と言うか、いい意味での場当たりと言うか、めんどくさい絆や関係性から離脱し、諦めかけていた自分の世界に没入できる幸せは、まさにコロナ時代の産物であった。

コロナが多くの腐れ縁を断ち切り、一定の距離を置く関係性に、自分も社会もリセットされた訳で、集団と相互依存による決まりや制度にしか生きられなかった人類が解放されるきっかけとなり、不快で苦痛なジョインから良い意味でのジョブへと社会参加の意識も大きく変化したように思う。

そんな中、未だに同調圧力を笠に路頭に組みして活動している旧態依然の意識の持ち主もいるが、このコロナ時代に愚かだと思う。

そんな訳で、新たな時代の幕開けに、今こそ古き時代の終わりと新たな日常の始まりに、夢と希望を抱いて、生きていこうと思う次第である。

jpjapon について

3匹の犬と優しいけど時々意地悪な元気なおばさんと桃やブドウに囲まれた田舎で暮らしています。音楽と写真が大好きなパソコンフリークです。日々の想いを、聖書の御言葉や御仏の教えを交えて仲間と語り合うのが大好きです。平凡な日常から垣間見る世間の出来事を、自分流に書き綴っていきたいと思います。
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