生き物に寿命があるように、愛や慈愛にも限りがある。慈悲深い仏様にも「仏の顔も三度撫ずれば腹立つ」と言う故事ことわざがある。さらに、過ぎ去れば何事も意味を失い、すべてが無と化すことは、ご案内の通りである。
しかしながら、そう簡単に物事を割り切れないのが凡夫の性で、今日も相変わらず、様々な想いに駆られながら、世俗の波に揺られている。
ところで、「デカンショ節」と言う学生歌があるが、デカンショとはデカルト、カント、ショーペンハウエルのことらしいが、「デカンショデカンショで半年くらす、後の半年寝て暮らす…」と、奨学金と就活に集約される今日の学生生活と昔の学生生活とではかなりスケールが違うようで、昔の学生の方がロマンとアカデミックに満ちていたように思う。
まあ、若い頃は真剣に生きる意味を問い正し、切ないほろ苦い青春の想いに言葉もないが、今日的な「今だけ、金だけ、自分だけ」の世相にあっては、「元カノ、元カレ」の一言で片付けられてしまい、金の切れ目は縁の切れ目、甲斐性も人情も死語と化し、近代文化や文明の熟れの果ては、まさにオペラの世界にも似た欲望の世相を見る想いがする。
まあ、そんなことから「愛も期間限定」になってしまっても仕方ないが、まぁ昔は狭い地域社会での生活であり、今日のようなグローバルな他種多様な社会ではないから、ある意味において一途な想いを貫くことができたのかもしれない。
そんな訳で、全てがフラッシュ、期間限定、ポイントセールに翻弄される日々だが、今日は1人で食べるものがないので、駅ビルに弁当を買いに行ったが、店のレジが故障で、現金扱いポイントは後日と言われた。たまたま、現金を持っていたから良かったけど、持っていなければ買えない。電子決済は便利だがその脆さをつぶさに感じた。
聞くところによると、新円切り替えに合わせて、1000円札はもう印刷していないらしいが、金融機関の窓口や計算センターなども不要になる訳で、何か別の使い道を考えているのだろう。
期間限定、旬を楽しむ、そんな想いを新たにしたが、秋は何と言っても「実りの秋」コロナに負けじとたくさん食べて、ここらで期間限定のコロナ自粛に終止符を打ちたいと思う次第である。
期間限定、そんな生活が似合うのが都会である。