同性愛者の事実婚をローマ教皇フランシスコが容認する発言をしたそうである。ご案内のように、カトリック教会はこれまで同性愛や避妊、離婚をタブー視してきたが、教皇フランシスコはこれまでも実社会に即した教会改革が必要だとして柔軟な見解を述べてきた経緯がある。
日本でもLGBTなど性的マイノリティーのカップルを公認する「パートナーシップ制度」が茨城県や大阪府で導入されているが、このような動きは、これからも拡大していくのだろうか。
いずれにせよ、同性愛同士の事実上の婚姻「シビル・ユニオン(合同生活)」が市民権を得るとなると、ますます少子化に拍車がかかると思うし、さらに、夫婦別姓などが重なると、これまでの社会秩序の根幹をなしてきた婚姻(家族)制度が完全に崩壊してしまい、時代の流れとは言え、何処か素直に受け入れられないものがある。
まあ、当事者が良ければいい話だが、しかし、それが公然となると、必然的に男女の関係や愛の形も変わってくる訳で、近い将来、生活の状況や年代に応じて、パートナーを入れ替えて生活していくことも珍しくなくなるかもしれない。さらに、ベーシックインカム等によって社会のセーフティーネットが拡充されれば、人生もいろんな経験ができバラエティーに富んだ生活ができて面白いかもしれない。
まあ、将来への夢や希望、想いや欲望を形にするためにクレジットやローンがあり、信用の創造が今日の私達の豊かな生活を築き支えてきたことも事実であり、一概に今日の金融システムを否定しても意味がない。
しかし、その一方で、極端な富の偏在や格差社会が生まれていることも事実であり、景気循環も意図的に作られているものとしたら、それは合法であっても、社会的な犯罪であり罪である。
いずれにせよ、金による支配、宗教や倫理による精神的支配から、近代社会は抜け出てきていることは確かで、「ひょうたんから駒」、嘘偽りや妄想や幻想、虚構や偽善の世界から、グノーシス的展開によって、全宇宙に開かれた精神性豊かな高次元な世界に向け、コロナによって一歩踏み出した感もある。
そんな訳で、教皇フランシスコが言うように、十字架にキリストはいない。キリストは教会組織や十字架でなく、私達の信仰心に臨在するのである。
改めて、すべてに感謝したいと思う。