存在が心の支えとなる。そんなことが人生の目的ではないかと思う。つまり、具体的な行為や行動でなく、「存在そのものが心の支えや助けや救いとなる」そんな有り様が人生の目的ではないかと思う。
気づけば、我が家の3匹のワンちゃんたちもそんな存在であったように思う。しかし、現実はワンチャンの世話は大変な労力が必要で、とても損得勘定では割が合わない。しかし、その一方で、目に見えぬ力で、日々日常私達を見守り支え、心のよりどころになってくれていたように思う。
まあ、我が家の狛犬だった訳で、時々思い出すと何とも言えない気持ちになる。
そんな想いに、朝夕お燈明やお線香をあげるのが日課となっているが、父母やワンちゃんたちの写真を見るたびに、生き物はなくなると成仏するものでありたいと思う。
まあ、信仰において、神の存在そのものも、そのようなもので、具体的にどうこうするものではないと思う。つまり、棚からぼた餅的な具体的な利得や魔除けや請願成就を神仏のご利益と考えるのは、ちょっと軽率軽薄であり、やはり日ごろの想いや意欲や意識や行動なくして、神仏のご加護やご利益には肖れないのではないだろうか。
そんな想いに、人間、最後まで修行である。仏門に入るは容易いが出門するは難しい。なぜなら、日々日常、自分の意欲と意識で生活しなければならないからである。それでも、在家にあって神仏の想いに沿って生きることが、神仏の本懐ではないかと思う。
そんな存在に今日も支えられ、生きることの楽しみと喜びを限りなく味わいたいと思う。すべてに感謝したい。