
今年のかぼちゃは美味しくない。水っぽくて味がしない。適当な種をつかったので無理もないが、来期は種を激選してクリかぼちゃの種で再挑戦してみようと思う。
ところで、米ハーバード大学のエレン・ランガー教授(心理学)は「感情は囚われに基づいている」と言っているが、オーストラリアの精神科医アルフレッド・アドラーが提唱する「感情には目的がある」と言うのが感情についての定説で、どちらも的を得た言葉ではあるが、イマイチ食欲や性欲と言った生理的な欲求との関連性が掴めない。
疲れると甘いものや脂ぎったラーメンや濃厚な丼物が食べたくなるが、そんな感情をセーブするとモヤモヤしたものが残り、目的と言うか囚われている気がする。
そんな感情に振り回される毎日だが、感情や情動は必ずそれを呼び起こすキッカケがある筈で、その辺の思考回路を辿っていくと、その発端はやはり目からの情報ではないかと思う。
その意味から、部屋に余計なものがあると気が乱れる訳で、家相や風水などをお手本に、観葉植物や香炉などを部屋のあちこちに置くのも考えものである。
そんな中、ミョウガがそろそろ収穫期を迎え、年々株が広がってくるので、お得意のツルハシとシャベルで手前を掘り起こし根が伸びるようにしてみたが、見事に瓦礫のオンパレードで、ミョウガもよく場所を選んで根をはっているものと感心した。
そんなミョウガは妻が生協で苗を買い、どっかに植えてと言うから、苗の本数分畳み一畳ほどを掘り起こし植え付けたが、3年目にしてとんでもなく手前に広がり、それならと手前を掘り起こした訳だが、所狭しと瓦礫が埋まっていたのには恐れ入り屋の焼き蛤である。
そんなことで、今日もそれなりに日が暮れる。誰もがそれなりに一日が終わり、夜に英気を養い明日に備える。私は隠居の身だから安楽だが、意欲的に活動している人は時間に追われ意にそぐわないこともあったりして、かなりのストレスを抱えていると思う。正に「三界は安きことなし猶火宅の如し」で、その感情も情動も何によるものか、その方向性も分からず、どうしたものか苦しんでいるのではないだろうか?目的も理由も分からず走り続けていては仕方ないが、多くは単なる思い込みからの現実(実存)に過ぎない故に、改めて人生は意味不明であることを痛感する。
それにしても、7月も中旬を迎え、部屋の除湿機は連日フル回転、早く梅雨明けが来ることを願わざるを得ない。猛暑は嫌だし雨もテンションが下がり宜しくないが、真夏の夕立には、子供の頃を思い出す。夕立が立ち去ると急に涼しくなって、道路の水溜りにアメンボが泳いでいた。今ではじゃり道道路など滅多に見当たらないが、私が子供の頃は街の中でもそれが当たり前だった。電信柱はコールタールが塗られた木柱で、夕立に会うとそんな記憶が脳裏を掠める。
そんな想いに、Bryan FerryのHard rain’s gonna fallが聞きたくなった。ロキシーの大御所78歳になる。虫唾が湧く気持ち悪さが堪らない。長生きしてほしいと思う。