想いと絆

作家や音楽家などの芸術家や政治家や宗教人は、ある意味で自分の生き様をさらけ出さないといい仕事ができない。それは、俳優や女優などの芸能人も同じことで、人間の深い部分に関わる仕事だからである。

さらに、己の想いと相手の想いがひとつに重ならないと仕事にならないから、多くの技法を駆使しても、自分を隠し通してできる仕事ではない。少なくとも、胸襟を開き、自分の言葉で己の想いを何らかの形で表現し共感を得なくては覚束ない仕事なのである。

しかし、能の世阿弥が残した「秘すれば花、秘せずは花なるべからず」という言葉にも一理ある。それは、観客の想いと演者の想いがひとつに重なる舞台効果の心得を言うのであるが、それは、秘しても自分の想いが伝わる高度な表現力をいうのであり、まさに私達は、演者の仕草や表情から演者の想いを読み取るのあって、文章なら行間を読むことを、語りや朗読なら言葉の間を楽しむことに他ならない。

ところで、私達の想いは時空を超えて、有史以前から遠い未来まで、様々なものを包み込んでいるから、とても自分の意思で制御できるものではない。言い換えれば、私達の想いそのものが宇宙なのである。それゆえ、お気に入りの作家などは、親や連れ合いなどよりも近い存在になることもあれば、お気に入りの音楽家は、共に時空を彷徨う友や恋人であり、ある意味では遠距離恋愛しているような関係でもある。

日常は退屈で、そうそうドラマティックな出会いはないが、それでも心の何処かで、すべてを忘れ去るような出会いを求めているのである。まさに、私達の想いは己の肉体に収まりきれないのであって、人との出会いや語らいを通して、何を求め何を知ろうとしているかも計り知れないのである。

極めれば壊れる。産めば母体は傷つくのである。芸術家は極めるゆえに、壊れていくのである。言い換えれば、壊れていなくてはいい作品は残せないのである。ぼろぼろに傷つき壊れなくては、私達は後世に想いを引き継ぐことができないのである。

そして、そんな芸術家の想いに触れ、私達は共感し心の隙間を埋めて生きているのである。

それゆえ、私達は芸術以上に多くの人と胸襟を開き想いを共にすべきである。仕事や趣味を通して多くの人と交わり、想いを共にする喜びを分かち合うべきである。人生は短い。それに、いつ何があるか分からない。そんな時、支えとなるのは宗教や深遠なる教えかもしれないが、その言葉さえ、人によって語られなくては心には響かない。

なぜなら、想いは神だからである。私達は誰もが想いを語るために生きているのである。

jpjapon について

3匹の犬と優しいけど時々意地悪な元気なおばさんと桃やブドウに囲まれた田舎で暮らしています。音楽と写真が大好きなパソコンフリークです。日々の想いを、聖書の御言葉や御仏の教えを交えて仲間と語り合うのが大好きです。平凡な日常から垣間見る世間の出来事を、自分流に書き綴っていきたいと思います。
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