意味

全てに意味を失う。風を追うようなものである。

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想い出

平成も余すところ100日を切り、昭和は益々忘れ去られていく。明治M、大正T、昭和S、平成H、となると、新元号はA、K、N、Y、R、Wの頭文字からと言うことになるが、とにかく縁起の良い元号にしてもらいたい。

しかし、昭和も遠くなったものである。ちゃぶ台を囲んで、家族そろってご飯を食べた頃が懐かしい。

夕暮れに仰ぎ見る輝く青空… 日が暮れて辿るは我が家の細道… 正に昭和レトロの想いが蘇る。

すべてに感謝したいと思う。

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生霊

「気合い」と言えば、直ぐにレスリングの浜口親子を思い出すが、大相撲や野球やサッカーなども、応援があるとないとでは雲泥の差で、気合いやファンの声援(気)には、否定し難いパワーがある。

また、大きな集会やイベントなどでも、場の雰囲気に呑み込まれないように「人」と言う字を手の平に3回書き、それを呑み込み、緊張や不安を和らげる「お呪い」があるが、その効果はいざ知らず、人が寄り集まるところには、何か目に見えぬ波動やパワーが存在することは確かである。

つまり、人は常に何か目に見えぬパワー(気や念力や波動)を発しており、政治家や芸能人や芸術家の中には、独特の魅力やオーラがありカリスマ性がある人もいる。

また、森や川や草木や動物、それに死者には精霊(せいれい)が宿り、食べ物や衣服や持ち物や住まいにも、それなりの霊が宿っており、さらに風水なども関係するから、気力や霊力には侮れないものを感じる。

また、人によっては、出会った瞬間に目の前がパッと明るくなり、憂鬱な気分や冴えない気持ちが一挙に吹っ飛んでしまうような人もいる一方、虫酸が走り身の毛がよだつような嫌な雰囲気の人もいる訳で、夫婦仲もパートナーの食べ残しを食べられるか否かが、離婚調停開始の基準になっているらしい。つまり、場の雰囲気を創り出す気や波動には、それなりに特別なメッセージが込められているらしい。さらに、言葉は言霊と言われることからも、不用意に使うと、失言では済まされない事態になることは、ご案内のとおりである。

ところで、今では一番身近な五反田駅に程近い泉岳寺には、創価学会や立正佼成会と並ぶ宗教組織「幸福の科学」の総本山があるが、そのトップである大川隆法総裁は瀬戸内寂聴や金正恩やトランプさんなどの多くの著名人を霊視しており、死者の霊言なるものも興味深いものがある。

そこで、ミイラ取りがミイラにならない程度に、スピリチュアルについて調べてみたが、一般的に、私達は祖先の守護霊に護られており、人によっては動物霊や「異常な執着」によって生み出される生霊(いきりょう)などが取り憑いており、特に生きている人が自分の霊を分離して飛ばす生霊に取り憑かれると始末に悪いらしい。

つまり、自己中心的で目的のために手段は選ばないマキャベリストや、 他者の気持ちに寄り添えず人の不幸の上に自分の幸福を平気で築けるサイコパスなどによるストーカー紛いの執着心には、生霊を飛ばす強力なパワーがあるらしく、飛ばす方も自分の霊力の一部を剥ぎ取って相手に飛ばす訳だから、気力や精力が失われる一方、生霊を飛ばされた方は、負のエネルギーを受け、物事が上手くいかなくなったり健康を害したりするらしく、読んでいる内に具合が悪くなった。

なぜなら、私は人に好意を抱いたり、気に障ることが結構あるからで、そんな想いや感情が生霊となって飛んでいったり、飛ばされてきては、気力や胆力が幾らあっても足らず、とても気楽に人とは交われないからである。

それに、芸能人や政治家や宗教家や医者や教師などは、人間を相手にする仕事だから、まともに毎日、生霊に晒されていることになる訳で、幾ら彼等が身体が強健であっても保たないような気がする。

そんなことから、霊能者やスピリチュアリストの中には、取り憑いた生霊を除霊したりお祓いしたりすることを勧めている人もいるが、普通の人ならそんな必要はないと思う。

しかし、気の合わぬ職場の上司の視線が気になり、首が回らなくなったなどと言う話はよく聞く話しで、兎にも角にも、人生の悩みの大半は「人間関係」にあることは確かである。

そんなことから、親子や兄弟や夫婦と言えども、持ち得る能力や気力や性格が違うから、お互いに相手を自分の尺度で計らず尊重し合って、「支配や依存」にならぬように気をつけ、適当な距離を保つことが、如何なる関係においても良好な関係を維持する秘訣に思え、愛憎に膨れ上がった生霊を飛ばしたり飛ばされたりすることを回避することにも繋がるような気がする。

まあ、自分の経験からしてみても、確かに窓口業務などで一日幾人もの人に接すると、内部業務より遥かに疲れの度合が違うから、やはり程よい距離感は大切だと思う。

また「目は口ほどにものを言う」とか言われ、幾ら隠しても気持ちは表情に表れるから、私的には、生霊に成らぬ距離感を持って、色気も食い気も隠さず深追いせずに、スマートに豊かに発散して、晩節を実りあるものにしていきたいと思う。

ところで、そんな視座から最近の世相に目を転じると、世界はどうも激動の時を迎えているようで、あいも変わらず韓国の文政権は反日感情丸出しの生霊を送ってくる。特に最近は、文政権による朝鮮半島統一の動きは高まるばかりだが、ここで下手に韓国側の提案に妥協すると、統一後に、それを逆手にとんでもない裏切り行為を喰らうことになり兼ねないから、平和憲法維持などと現実離れした理想に振り回されずに、現状を分析し適切な対策をする必要があるように思う。

まあ、少なくとも排他的であれ経済水域を侵されたら、拿捕して調べるくらいの強権を発動しないと独立国家としての威厳もなくなる一方、レーダー照射事件に絡む日本のジャーナリズムの的外れの報道には、何か背後に良からぬ勢力の思惑が伺え、事実を事実として詳らかする勇気ある報道を、ジャーナリズムは心掛けてほしいと思う。

そんな想いに、これからは、霊力や念力の視点からも、人に反感を買わぬように注意し、折りに触れ神社仏閣を参拝して、生霊や悪霊から難を逃れ、晩節をより実りあるものにしていこうと思う次第である。

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love

And I love her …

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権威

我が家のライオン丸です 病気療養中です

とにかく失敗や過ちの連続で、人生外れぱなしの私としては、最も信じられないのが自分である。そんな自分を何処かで見守り支えてくれる存在への憧れは、歳を増すごとに色褪せるどころか深まるばかりである。

かと言って、私は世俗の宗教を信じている訳でもなく、強いて言えば、憂いや悲しみに満ちた現実を超えたところに別な世界があって、そんな権威に憧れて暮らしていた中世ヨーロッパの人々の世界観が好きで、その時代の文化に憧れている人間の一人である。

ところで、そんなキリスト教文化一色の中世ヨーロッパの社会は、その後のマルチン・ルターによる宗教改革やルネサンスを経て、産業革命による功利主義や実存主義の洗礼を受ける中、近代物質文明の進展に伴うマテリアリズムの浸透により、今日世界は The end of modernity (近代の終焉 Postmodernity)の様相を呈しており、物質至上主義(科学、技術、お金)を、至上の権威と見做す一方、今や誰もが自分自身の能力と世界観を信じることを理想とし、そのアイデンティティの下に行動しているように思う。

つまり、人の数だけ世界が存在するという相対的な世界観による権威立てによって、全てが企てられ正当化されている訳で、これではいくら納得いく妥協点を見出したとしても、変化と多様性の中に、状況次第でいつゴールポストが動かされるか分からない訳で、常に一抹の不安を抱えることになる。

このことは、俗に言う「今、オレ、金」の今日的な世相に反映されており、そんな利己的な金銭感覚が、企業経営やマーケティングの世界で肯定され、評価されているところに、恐ろしさを感じる。また、そんな感覚で私達の自律が定義され肯定され存在の証とされたら、神聖なる男女の関係も、駆け引きやビジネスを前提とする男女の関係(性差に基づく関係性)にしか思えなくなってしまう。

まあ、平たく言えば、今の時代は、愛もお金で買う買える時代なのである。一方、物理学や数学の進展は、「神の不確実性」を浮き彫りにし、今や知識人だけでなく庶民レベルにおいても、己の感覚や感性を信じ、真剣に見えぬ世界の権威を、お互いのアイデンティティとする人は稀だと思う。

要するに、見えぬ世界の存在に気づき、憧れながらも、その権威が狭隘化し、誰もが紐付かない寂しい時代になり、その意味から、信仰はより潜在的な個別なものになってしまった気がする訳で、言葉が言葉として意味を為さなくなったように思う。

仮に、平行するパラレルワールドにおいて、全てが詳らかにされ、霊魂が不滅だとしたら、死することは安らぎどころか恐怖であり、死後にパラレルワールドにて、如何に自分の立場を離れて公平に物事に接し正義を実践したかが問われては、その時点で、私はアウトであり、死すことは恐怖以外の何物でもない。

まあ「知らぬが仏」などと高を括っていると、あの世で赤っ恥をかくことになる訳だが、ただ、あの世を見た人がいないことが現世の救いであることは確かである。

そんな訳で、何か文脈が支離滅裂になってしまったが、要するに、科学技術や物質文明の進展は、変化と多様性の中に、私達の不確実を助長し、さらに時間的にも空間的にも世界が狭隘化する中、通信技術の進展から世界の現実を世界中の人々が同時に目の当たりにする訳で、そんな時代背景を背に、皮肉にもグローバリズムは、人やモノや情報の交流を加速する一方で、様々な文化文明の衝突を生み、世界統一が図られるどころか、混乱と秩序の崩壊を助長し、その終焉において、私達の精神性をも破壊してしまった感がある。

そんな想いに、最近頓に感じることは、己の理性を頼りに、幾ら己の存在を証してみても、それは単なる自己満足に過ぎず、バッハやモーツァルトやシューマンやショパンが世俗化する宗教を背にしながらも、その楽曲に秘めた神聖なる想いに、見えぬ世界の存在と権威を感じる私としては、フラッシュなインスタントな一過性に終る物質文明の功罪を改めて痛感する次第である。

まあ、変化と多様性の中に、変わらぬ存在と権威が見い出せない今日、私達の幻想や妄想にも似たVRの世界にハマるのもありかもしれない。しかし、私的には朽ちていく現実に、その真意を何とかして確かめたいと思うが、改めて、己の無知無明を痛感する次第である。

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季節

昨日で松の内も終わり、今日は寒の内の真っ只中、1月には小寒や大寒がある。2月の節分を終わると立春であり、3月から4月かけては梅が咲き桜が咲き、5月の連休には、ポカポカ陽気に春を謳歌し、6月の夏至を過ぎると本格的な夏がやってくる。

年が明け、まだお正月や仕事始めの余韻が覚めやらぬ中、春のポカポカ陽気や夏の湘南の浜辺が思い起こされる。

お花見なども、ついこの間、飛鳥山や目黒川に出掛けて行ったような気がするが、もう3ヶ月もすれば、同じようなシーズンを迎える訳で、今年は何処でストリート・フォトするのだろうか。

そんな想いが次から次へと沸き起こり、果てしなく広がっていく。今年もそんなイメージに遊びながら、臨場感を持って頑張ろうと思う次第である。

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新春に思う

お正月の松の内も今日で終わるが、なかなかお屠蘇気分が抜けない。まあ、そうは言っても、私だけは自分が予定を組まない限り、まだお正月でいいのだが、孫や子供や妻たちは、保育園や学校や仕事にそれぞれ出掛けていくので、隠居の身とは言え安穏としてはいられない。

そんなことから、私はとにかく今年は健康管理に努め、家族に迷惑を掛けないように、毎日規則正しい生活をしようと思うが、幸いにも昨年の秋頃から始めたストレッチも、お正月中はちょつとさぼってしまったが、何とか続いており、趣味のストリート・フォトも社会探訪を兼ね結構街中を歩くので、これと言った運動をしなくてもいいような気がする訳で、とにかくマイペースで焦らずゆとりを持って、身近な人たちと楽しく今年もやっていこうと思う。

そんな年初めであるが、ご案内のように、世間は昨年暮れの12月20日に日本海のEEZ海域(排他的経済水域内)で、韓国海軍の駆逐艦「広開土大王(クァンゲト・デワンDDH-971)」が、日本の海上自衛隊のP-1哨戒機に対して火器管制レーダー(射撃管制用レーダー)を照射した事件が、持ち切りで何ともシックリしない。

まあ、いつものことながら、韓国側は事実に反する嘘の上塗りから子供騙しの説明をしている内に、逆ギレして謝罪を求める事態に発展しており、慰安婦や徴用工問題も含め、日系企業の資産差押えなども取り沙汰される事態となり、日韓の主張が激しくぶつかり合い、日韓関係は泥沼化の様相を呈している。

まあ、一連の流れをみると、とにかく気が合わない国民同士なのは確かであり、これ以上話し合っても妥協点は見い出せそうもないから、ことを荒立てずに当たらず障らず、そっと自然に離れて行くしかないように思う。

この件については、元自衛隊航空幕僚長の田母神俊雄氏がツイッターで、日本政府の過剰反応や外交問題化しつつある情勢に、専門家として冷ややかなコメントを残しているが、まあ、何事も争って得することはないから、田母神氏のご意見も、立場を超えた見解として尊重する必要があると思う。

しかしながら、一連のやり取りを見る限り、韓国の不実は今に始まったことではなく、福沢諭吉の「脱亜論(明治18年3月26日)」には、次のような記述がある。

《我日本の国土はアジアの東辺に在りと雖ども、その国民の精神は既にアジアの固陋を脱して西洋の文明に移りたり。然るに爰に不幸なるは近隣に国あり、一を支那と云い、一を朝鮮と云う。》(「脱亜論」明治十八年三月十六日)。

この近隣にある「二国」は、《その古風旧慣に恋々するの情は百千年の古に異ならず……教育の事を論ずれば儒教主義と云い、学校の教旨は仁義礼智と称し、一より十に至るまで外見の虚飾のみを事として……道徳さえ地を払うて残刻不廉恥を極め、尚傲然として自省の念なき者の如し》

つまり、この記述からすると、韓国や中国とおつき合いするなら、最初から心してつき合わないととんでもないことになることは確かである。

まあ、思い込みや既成概念から、不必要な差別や偏見はいけないが、中国と韓国は隣国にも拘らず、確かに欧米諸国や日本の価値観や世界観とは一線を画するものがあり、国際ルールやマナーやエチケットが通じないばかりか、民族的にも感覚や感性もかなり違い、ロシアの方が遥かに親近感を覚える。

まあ、生粋の日本人は、義理人情に厚く、正義を誉れとし、お金や権力に屈せず、自分の立場を離れてものごとを公平に見れる民度が高い国民性を持ち合わせており、そんな視点に立てば、中国や朝鮮の民族は全く異質な存在であり、日産のゴーン会長のような人物もコストカッターとしては適任だが、日本の会社のCEOとしては不適格な人種だと思う。

そんな訳で、今年は新生「日本」の幕開けの年である。私達も当事者意識を持って、お隣韓国や中国の動向を反面教師として、日々日常の生活を見直し活かしていけたらいいのではないかと思う次第である。

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駅伝に思う

「敗軍の将、兵を語らず」と言う諺がある。 戦いに敗れたものは、 戦いの経緯や武勇について、語る立場にないと言う意味から、失敗した者が弁解がましく発言したりするものではないという戒めである。

確かに敗因を語れば、弁解がましくなり話せば後味が悪い。聞いた方も「残念だったね。次回頑張って!」としか言いようがない。多くを語ることはタブーであり美しくない。

そんな風に思ったのは、箱根駅伝で5連覇を成し得なかった青学の原晋(すすむ)監督が、メディアにちょっと出過ぎではないかと思ったからで、メディアも、原監督などより、優勝した東海大の両角速(はやし)監督をひっぱり出して勝因を語ってもらった方がいいように思う。

まあ、それだけ青学の復路の猛追がドラマだったとも言えるが、それにしても、往路の4区5区の失速は想定外で、何事も伏兵は潜んでいるものである。

ところで、 メディアによると、原監督はTwitter を始めたそうで、フォロワー55万人を目指していると言うから驚きである。まあ、最近は講演会やマスメディアから「ひっぱりだこ」で、場慣れし、タレントになってしまっている節も伺えるが、時代に則した大会運営の一翼を担うものとなればいいようにも思う。

まあ、アメリカのトランプ大統領も Twitter で短文を世界発言する時代である。「敗軍の将、兵を語らず」では、もはや時代遅れなのだろう。

まあ、言っても言わなくても、あっという間に情報が掻き集められ、プライバシーなど無きに等しいので、変な憶測や中傷を拡散されるより、積極的に情報を発信していく方が、世間から賛同を得られるかもしれないからである。

まあ、「火のない所に煙は立たぬ」どころか、「火のない所にも煙が立つ」訳で、そんなガスネタを鵜呑みにしてもうまくないし、まあ、毎日がエイプリルフールと思っていれば間違いないが、私達が日頃参考にしているWikipediaさえも、良からぬ分子によって書き換えられていると言うから油断できない。

そんなことから、世間から正しい認知を得るためにも、情報は自ら発信していく必要がある。それに、自ら情報を発信するとなると、普通の人間なら自分の言葉に責任を持つようになるから、そんなことも、まともな社会を形成することにつながるものと思う。

しかしながら、中には知名度が上がれば、欲得に目が眩みタレント化して体制擁護に回ってしまう人もいる訳で、そんなみっともない生き様を世間に晒さぬよう、少なくとも、リーダーやエリートたるものは、何事にも、日本人の心意気と礼節を示し、自分の立場を離れ、ものごとを公平に見られる人間であってほしいと思う。

そんな想いに、来期は「東海大一強」と目される箱根駅伝に、母校青学のさらなる健闘を期待する次第である。

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地方創生

ご案内のように、お正月にはラグビーやサッカーなどの競技試合が行われるが、箱根駅伝ほど人気のある競技も珍しい。その知名度は高校野球(甲子園)と並び群を抜いており、学校名や所在地を世間を知らしめるには、これほど強力なツールはない。

もちろん、そんなことは二次的な産物に過ぎないが、大都市に人口が集中し、地方都市には人口減少を食い止める有効な手段がない今日、豊かな自然環境を活用して、スポーツなどの学習環境を整備し、それを糸口に、子育てや介護に優しい地方都市を模索してもいいような気がする。

そんな視点から、郷里の山梨学院大の競技歴を追ってみると、 山梨学院大は順天堂大学出身で箱根ランナーだった上田誠仁監督に率いられ、1987年(昭和62年)の第62回大会に初出場し、都会の強豪校や伝統校と渡り合いながら、3度の総合優勝を果たす中、二度の途中棄権によるシート権落ちにも予選会を勝ち抜いて出場し、初戦から一度も襷を途絶えさせることなく戦い抜いている。

連続出場回数は今大会参加チームの中で4番目に長く、箱根駅伝への注目度が高まる中、出場を目指す大学も増え、今大会に出場した中央学院大、国学院大学、城西大、上武大、東京国際大、帝京大などは、山梨学院大より後にエントリーした新興勢力である。

そんなことから、最近は有力選手の獲得が、都会の伝統校や強豪校に比べ、施設やコーチ面でのサポートや卒業後の就職先まで考え合わせると、地方大学はかなりのハンディを背負っていることは、否めない事実である。

そんなことから、交換留学生の活躍が期待される訳だが、山梨学院大学は、箱根駅伝を通して、同県の国立山梨大学より全国的に知名度がある訳で、郷土山梨を世間にアピールした功績は大きい。

一方、今日の大学は、基礎研究はもちろんだが、実際の生活に役立つ実利的な研究開発も行われており、いろんな産品が民間企業とのコラボで産み出されていることはご案内の通りである。

そんなことから、地方都市の消滅が危惧される中、入管法の改正や地域産業の開発なども含め、いろんな視点から、箱根駅伝を先例として地方創生の糸口を探ってみたらどうかと思う次第である。

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箱根駅伝

今年の箱根駅伝は、母校の青学が鶴見から小田原に抜ける第4区で、まさかの失速、往路6位となり、史上3校目5連覇に暗雲が立ち込める展開となってしまい、一時は意気消沈してしまったが、それでも復路は5時間23分49秒と大会新記録で復路優勝し2位に食い込んだのは大したものである。

さすがに、青学の選手層の厚さがものを言ったレース展開であったが、優勝した東海大は創部47年にして、悲願の優勝を果たした訳で、栄誉を讃えたい。

ところで、原晋監督は4区を甘く見ていたと采配ミスを認める一方、チーム全体の強化については間違いはなかったが、去年と同じことをやれば優勝できると保険をかけてしまい、進化することを止めた時点で、退化が始まるとも語っている。

その一方、郷里の山梨学院大学は、エース·ニャロイが不在のまま、今年は何と23校中22位(繰り上げスタート)と振るわず、このところの成績からすると、進化せずに退化してしまった感がある。

ひところのオツオリやマヤカやモグスと言った交換留学生の活躍が思い起こされるが、留学生の起用には、賛否両論いろいろ揶揄されるところもあるが、上田監督は都会の大学とのハンディをよく乗り越えてやっていると思う。地方都市が衰退する中、今後の再起を期待したいと思う。

そんな今年の箱根駅伝であったが、今年は昨年来から計画していた駅伝コース沿いでの応援を、当初は馬込に近い第一京浜沿いでしようと思っていたが、校友のパンフレットによるとコース上に応援ポイントが決まっていて、それなりにルールもあるようなので、馬込から地下鉄で一直線で行ける増上寺·芝公園が便利なので、そこに決め、早起きしゆっくり朝風呂で温まり、寒さ対策をバッチリして出掛けた次第である。

現地には7時頃になってしまったが、6時半頃から校友サポーターが準備していて、幟旗が既に沿道に並べられていた。事務局にご挨拶に行くと、応援サポーターはフレッシュ·グリーンの応援ロゴ入りのアウターや帽子やマフラーや応援手袋やメガホン、代表はロゴ入りのリックを背負う出立ちの念の入れようで、その熱意には恐れ入った。

皆さんは私と同じ団塊の世代の方が多く、卒業年度を告げると当時の四方山話に花が咲き、駅伝コースのガイドブックと注意書きを私に手渡しながら、私達の話を聞く校友OGの顔立ちには、若き日の面影が伺え、年相応の落着きと美しさを感じた次第である。

そんなことで、幟旗を引っ提げての応援は、ほんの一瞬で終わってしまったが、手間暇を考えると全く間尺に合わない事とは言え、応援を通して得たものは大きい。サポーターの皆さんとは、来期を約束して別れたが、野球やサッカーの応援とは一味違う出会いと感動があり、無条件に楽しかった。

我が母校の再起を期し、今年一年選手になったつもりで私も精進しようと思うが、原監督の言葉ではないが、毎年同じことをしていてはダメである。人生の大敵は、マンネリと惰性である。挑戦をやめ保険をかけた時点で、私達は心の張りを失い、若さや輝きや進歩さえも失うことになる。

そんなことを肝に銘じ、私的には出来る範囲で、いろんなことに挑戦して、実りある一年にしていきたいと思う次第である。

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