想い

何も変わらない。一雨ごとに寒くなる秋の長雨に、想いは果てしなく尽きることがない。全てに感謝したいと思う。

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京都

私の親しい友人が、リタイヤしたら、京都にしばらく移り住みたいと言っていたが、大賛成である。

来年は、今上陛下が生前退位なされ京都に移り住みことから、戦後衰退の一途を辿る日本の文化が再び花開く千載一遇のチャンスである。私もそんな新生日本の胎動を悠久の都で、直に肌で感じてみたいが、羨ましい限りである。

ところで、歴史的に三都とは、京都、大阪、江戸を言うが、私的には、JR西日本の観光キャンペーン「三都物語」の印象が強く、京都、大阪、神戸のような気がしてならない。

まあ、確かに、東京や横浜や千葉などとは違って、関西の諸都市は、それぞれに歴史があり、市民感情や市民意識もかなり違うように思う。

それを知ってどうなるものでもないが、形として見えないところに、その土地の魅力があり、その街がぴったりくる感覚は、多分DNAに深く刻まれた意識によるものではないかと思う。

まあ、都会は世知辛いところもあるが、人から干渉されなくていい。正に「都会は人を自由にする」し、色んな情報に晒されるから、クリエイティブに、またイノベーティブになると思う。みんな必死に暮らしているが、私はそんな都会が、メリハリがあり活動的で好きである。

そんな訳で、今年の秋は、とにかくカメラやスマホやパソコンの新製品が目白押しで、ガジェット好きには堪らない。「 蓼食う虫も好き好き」であるが、地の利を活かして、買わずとも手に取り、想像を膨らまして、人生をクリエイティブに楽しもうと思う次第である。

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秋雨

「腑抜け」と言う言葉がある。はらわたを抜き取られたような状態、意気地がない、気力がない、しっかりしていない、魂が抜けたような形骸化した虚脱状態にあることを言うように思うが、時間軸に支配され主体性なき日々を送る私達が、一度は経験する感覚だと思う。

まあ、人生は出会いと別れの連続で、老病死に怯えながら、ご縁を頼りに喜びと悲しみの中に奮起楽担の連続で、気の休まるところがない。正に人生は「三界は安きことなし、なお火宅の如し」であり、覚めた目でみれば、実に人生は馬鹿馬鹿しい。

しかし、そんな感覚や感情はそれとして、別の視点から世間を見渡すと、世間は結構広くて道が開けているもので、案ずるより産むが易しである。まあ、うまくいかないこともあるが、「すすらすっと」うまくことが運ぶこともあり、とにかくアンテナを高くして、めげずにあせらず拘らずに、次から次へと過ぎ越していくのが、お釈迦様の言われる涅槃への近道ではないかと思う。

まあ、私としては、超高齢化の波に乗り、いつも元気なおじいちゃんでいないと、孫娘たちからも相手にされなくなってしまうので、珍しく自分としては奮起して、ストレッチを始めたが、今日でなんとか2週間になる。まあ、運動はどちらかと言うと嫌いなので、どこまで続くか未知数だが、とにかく身体が硬いのには失望した。

まあ、無理をせず「ムダとムラ」を承知で長く続けることを念頭に取り組むことにしているが、どうなるものか、とにかく隠居の身なので、頼りになるのは自分の意欲と意志と意識しかない。

何か「自律していること」が、験されるような感覚を覚えるが、一般的にこの種の習い事はスクールに通うのが手っ取り早い。

まあ、さしずめヨガスタジオと言うことになるが、そこはそこで、キャバクラヨガなるものも存在し、世間は広く、新たな出会いや散財が待ち受けている。困ったものである。

いずれにしても、人生の大敵はマンネリと惰性である。腑抜けに生きるも人生だが、失敗や過ちを繰り返してもチャレンジするほうが、私は夢や希望があって楽しい。

よく、人がいいとか、お人好しなどと言われる人がいるが、それはそれで良い性格であるが、もし色んなことが自分で決められずに、人任せに逃避しているとしたら問題である。

一昔前の大家族制にあれば、家族や周りの人がいて何とかしてくれると思うが、今日のような超少子高齢社会ともなれば、頼れる人も少なく相手に負担を掛けたり一人取り残されてしまう訳で、金銭的な問題より精神的に自律していないと、人生100歳の時代は、人に迷惑を掛けずに身近な人と楽しく心豊かにやっていけない。

仮に、一人になり老人ホームに入っても、そこにはそこで、牢名主のような親分がいたりグループがある訳で、何事にも依存しない自律した主体性がないと、とんでもないことになる。かと言って、無碍に失望するものでもなく、幸運を掴むのも、入所する時の自己判断にある訳で、そんな厄介な連中とも上手くやれるならいいが、それには日頃から意識して人と交わり、情報を掻き集め、よく考えて自己選択し自己決定し自己責任を負う姿勢を身につけ、他人任せにしないことが大切だと思う。

そうすれば、少なくとも、個々の案件については、歯は抜けても「腑抜け」にはならない訳で、まあ、少子高齢社会を生き抜く秘訣は、主体性(当事者意識)と臨場感を持つことにあると思う。

そんな訳で、今日は朝から雨で冴えない。これからは、一雨ごとに寒くなる訳だが、この週末は、ラーメン好きの孫との弥次喜多道中が楽しみである。

いつまで相手をしてくれるか分からないが、嫌われぬよう子供の感性に寄り添い、晩節の秋を楽しもうと思う次第である。

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主体性

私たちの生存に関わるどんな些細なことも、時間軸の外にはみ出たものはなく、因果の法則の支配下にある。

いかなることも、いかなるものも、生ずる以上は必ず原因があるし、原因がなければ、結果が生じることはない。無から有は生じないし、有から無は生じない。

過去から現在へ現在から未来へと、全てが否応なしに押し流され、主体性がないと同時に、主体性がないところに自我もあり得ない。

だから、私達が自我と呼び自己と称しているものは、真の自我ではない。そんな生存の在り方は、真の真我にとって、許し難い屈辱としか思えない。

全ての価値判断は、比較対照することで成り立っており、日々日常は喜んだり悲しんだり、奮起したり楽担したりしているだけで、自らの生存を「時の奴隷」として、隷属の苦しみや不浄や穢れたものと看做す人は稀である。

時が経てば、全てが色褪せ朽ちていく中に、常なることも安楽もなく、そこに生存の意味や理由は存在しない。

言い換えれば、真の自我は、時間軸から離脱した中にある訳で、 時間軸から離脱できない私達は、 日々日常の経験からいかなる要素を取り出しても、現世において、真の自我を組み立てることができない。

そんな訳で、仕事や趣味で自己実現などとよく言われるが、私的にはマンネリや惰性よりマシなくらいにしか思えない。

アメリカの心理学者マズローは、彼の自己実現論(欲求5段階説)の中で、「1生理的欲求 2安全の欲求 3社会的欲求と愛の欲求 4承認(尊重)の欲求 5自分に適したこと(好きなこと)をする欲求」の5つの欲求を掲げているが、晩年に、彼はさらに自己超越の階層をこれらにつけ足し、そこに至る人は2%ほどだとも言っているが、私的には、仕事や日々日常の動機づけには参考になっても、私達の生存の本質や在り方に鋭く斬り込むものは感じられない。

そんな訳で、今日は朝から清々しく、空は青く晴れ渡り、秋風に吹かれて、気分は爽快である。そんな中に、やはりオリンピックは、8月の猛暑を避け10月に行うべきだと思う。無駄なエネルギーを使わないで済むし、熱中症の心配もしなくて済むからである。まあ、スポーツの本質を逸脱した欲得と利権の祭典に、震災復興オリンピックなどと言ったりして、犠牲になるのは選手や被災者や主体性なき民衆であり、マスコミもマスメディアもそこをつかない。

総裁選も佳境に入り、改めて当事者意識を持ち主体性を持って、生きる意味を考えてみたいと思う。

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想い

甘く切なくほろ苦い青春の記憶は、誰にとっても貴重な財産である。全てに感謝したいと思う。

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生きる

文化芸術や趣味やスポーツが、私達の意識を拡大し、生命の営みを豊かにしてくれることは確かである。

特に、近代社会はそのシステムの歯車を容赦なく私達に押し付けてくる訳で、システムの歯車として回り続ける私達は、人としての尊厳が失われていく。

本来、私達の意識は時空を超える稀有な存在なのに、狭い部屋に閉じ込められ、一方的に役割や利便性を押しつけられることから、私達の意識は生気を失い、生命の営みは全く精彩を欠いたものになってしまう。

そんな意識のアンバランスが、私達にさまざまな不幸と悲劇をもたらしていると思われるが、宗教や哲学がそんな意識や精神の渇きを癒し取り除くように(疑問に思うものもあるが…?)、文化芸術や趣味や娯楽やスポーツなども、私達の心の渇きを解き放ち癒してくれるものと思う。

そんなことから、夢や幻や空想や虚構に遊ぶ文化芸術は、古来から芸術家を支えるパトロンがつきもので、 作品を通して、芸術家とパトロンは「身体と精神の糧」を、お互いに補い合う関係にあるものと思われる。

つまり、私達の本来の意識を、健全に解き放ち豊かな人生を送るには、時には日々日常を離れ旅したり、文化芸術や趣味や娯楽やスポーツの世界に遊んで、社会システムから離脱し、抑圧された想いや感情を解き放つ必要があるのである。

時に、画家の岡本太郎が「芸術は爆発だ」と言い放ったが、実に的を得た言葉だと思う。しかし、私のような貧乏人は、そうおいそれと文化芸術や趣味やスポーツにばかりに遊んでいられない訳で、日々日常の不平や不満や愚痴や泣き言は、ワンちゃんと戯れたり頭を撫でたり、身近な人との冗談やおしゃべりで解消している訳だが、そんな中にも、人によっては酒やタバコやギャンブルや女にハマり、不幸や悲劇の糸口を引き寄せてしまう人もいる。

そんなことから、人生をお仕着せでなく、自分らしく楽しくやっていくには、仕事以上に日々日常の想いを健全に解き放つ時を持つことが大切であることが分かる。

しかし、よくよく考えてみると、文化芸術やスポーツや娯楽は、一般の仕事と違って元は遊びであり、野球やテニスやサッカーに至っては遊戯である。それが社会的に評価され、それが人によってはパンの糧となり、名声までも手にすることになるから面白い。

まあ、一流になるには、それなりに苦労も運もあると思うが、そんな人達でさえ、いつか知らぬ間に、社会システムの歯車に組み込まれ回り続ける運命にあることは、ご案内の通りである。

そして、いつかしら形骸化した歯車で回り続けていたとしたら、それこそ悲劇である。

まあ、世間は正に「三界に安きところなし常に火炊の如し」であり、食べて通れば良しとして、社会の仕来りや枠組みはそれはそれとして、内なる声に耳を傾け、他に依存しない自分に気づくことが肝要で、そんな自分に気づく切っ掛けが、子供の頃の想いに立ち返る「遊び」にあると思う。

まあ、世の中、必ずしも経験や体験は必要ないが、こと意識や精神活動については「冷暖自知」であり、自らが体験しなくては、その本質を手にすることができない。

また、そんな他愛もない感覚や感性や感情が、いずれは大きな輪になって、社会を動かす原動力になっていく訳だが、それにしても、今日の文化芸術や娯楽やスポーツは勝敗や人気やお金に組織ぐるみで汚染され、お軽く精神性に乏しく、失われた意識を回復覚醒するような強烈なメッセージを発するものが少なくなったように思う。

まあ、そんなところに、清濁真偽、野生と理性の狭間に生きる私達の苦悩がある訳であるが、今月の15日にガンで亡くなった樹木希林さん(75歳)と内田裕也さんの奇妙な夫婦関係なども伺うと、愛と言うものの本質を垣間見る想いがするが、それをユーモアで笑い飛ばすところに、人を演じる俳優の魂を感じる。

ご冥福をお祈りしたいと思う。

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夕暮れ

全てに意味を為さない。私達は何処へ行こうとしているのだろう。改めて生きる意味を問いたい。

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チェンジ

アップルから新しいiPhoneが発表になったが、なんと18万を超えるスマホの登場には驚いた。 熱狂的なアップルファンならいざ知らず、今回はスルーである。それにしても、スマホも高くなったものである。

いくら高性能と言っても、18万といえばパソコンや高級ミラーレス が買える。こんな製品が市場に投入される訳だから、世間にはお金持ちが多いことが分かる。

しかも、1年もすれば最新スマホも色褪せてしまうことから、最近のIT技術の進歩は驚異としか言いようがない。次々と便利なものが登場し「買えたらいいなあ」と思っている内に、さらに気の利いたものが次々と出てくる訳で、正に人もモノも使い捨てであり、寂しい限りである。しかし、現実に好むと好まざるに拘らず、日々刻々と私達自身も変化している訳だから、致し方ないと思う。

まあ、「君子は豹変す」 A wise man changes his mind, a fool never. と故事ことわざにあるが、その意味するところは「 徳の高い立派な人物は過ちに気づけば即座にそれを改め正しい道に戻る。また、状況によっては態度や考えを急変する。賢者は考えを変えるが、愚者は決して変えない」と言ったところだが、何事も周りの変化を見逃さずにキャチして柔軟に対処することが肝要である。

そんな中、先日、身体の柔軟性についてお話を聴く機会を得たが、やはり同じ姿勢でいると筋肉の柔軟性が失われて伸びなくなるらしく、特に、現代人はデスクワークなどで手の甲を上に前かがみの姿勢が多くなるので、どうしても胸と脇の筋肉が萎縮して猫背になるらしい。

猫背になると年取って見えるから、治したいと背筋を伸ばしてみても辛くて治らないのはそんなことが原因らしい。だから、背筋を伸ばして猫背を治す前に、1日4回程度胸を開いて胸と脇の筋肉を伸ばしてやるのが良いようである。

まあ、労働基準法には6時間を超える労働には45分間の休憩時間を与えることを義務づけているが(8時間の場合は1時間)、それ以外にも、就業規則などで適宜に休息時間を設けることが指導勧告されている理由も合点がいく。

よく中国の製造現場で、一心不乱に流れ作業に追われ、一斉に机の上に覆いかぶさって休憩する光景を目にするが、一方で18万のスマホを手にするセレブがいると思うと、社会の矛盾を感じる。

しかし、その中にも、経営者になる中国人もいる訳で、そんな人は、それなりに社会の変化を見逃さずに軌道修正してきた人達だと思う。

いずれにせよ、変わらないものはないし、全ての道に王道はない。弛まぬ好奇心と探究心と観察力が必要だし、常にチャレンジしていく意欲を失ってはならないと思う。

そんな訳で、走馬灯のように駆け抜ける日々に、来週は秋のイベントが目白押しで忙しいけど楽しみである。健康管理に留意して、風邪など引かずに頑張ろうと思う次第である。

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切り替えて

今年の夏も終わり、みんな想い出になってしまった。 気持ちを切り替えて、今日も頑張ろうと思う。

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天空と団子

オーストリアの精神科医で心理学者である ヴィクトール・エミール・フランクル(Viktor Emil Frankl 1905年3月26日〜1997年9月2日)は第二次大戦中、ユダヤ人であるがゆえにアウシュビッツで、自由を奪われ極限の状況にあるのにも拘らず、人間らしい尊厳ある態度を取り続けた人を具に観て、私達が人生で実現できる価値として、創造価値、体験価値、態度価値の3つを上げている。

つまり、創造価値とは、行動したり何かを創りだすことで得られる価値のことで、何かを発明したり、素晴らしい芸術作品を創作したりすることなどが上げられる。

次に、体験価値とは、何かを体験することで生み出される価値のことで、仕事をしたり、旅行に出かけたり、芸術を鑑賞したり、恋愛をしたり、宝くじに当ったり、事故や災難に遭ったりする体験や経験から生み出される価値のことで、個人が普通に持つ価値観だと思う。
そして、最後の態度価値とは、人間が運命を受け止める態度によって生み出される価値のことで、如何なる逆境にあっても、気品と尊厳ある態度でいられることを言っていると思う。

まあ、 どの価値を自分の価値観に据えて生きるかは人それぞれだが、私的には失敗や過ちを繰り返しても、いろんなことにチャレンジして、新たな世界に突き進んでいくのがいいように思うが、しかし、 人生はそう甘くない。成功すると思っても、失敗の連続で、失敗すれば挫折や失望を招き、後悔や恨みや妬みなどと言った感情にも振り回され、順風万風の幸せな人生とは程遠い苦悩の日々を送り兼ねない。

その点、態度価値については、如何なる状態や状況にあっても、人間として気品と尊厳を失わない「生きる姿勢や態度そのもの」に、究極の価値を見出している訳だから、失望することもなく、前向きなのか達観しているのかよく分からないが、現実を一喜一憂しない姿勢には学ぶべきものがある。晩節にある私としては、何とか持ち合わせておきたいものであるが、いずれは誰もが死ぬ運命にあるから、誰しもが直面する課題と言える。

まあ、未練や恨みや辛みを残して死ぬ人もいれば、ありのままに死を受け容れて死ぬ人もいる訳で、願わくば心安らかに昇天したいと誰もが思うと思う。

そんな訳で、断捨離を重ねミニマリストを目指す私としては、とにかくいろんなことを一人静かに顧みる時間があって嬉しい。モノを整理すると、自分にとって本当に必要なものが浮き彫りされ、気持ちの整理もつく。

まあ、顧みれば、いつからこんなにガラクタの鎧を身に纏い、洪水で流された河を渡るのに重宝したボートを担いで広陵とした砂漠を旅してきたのだろう。一度重宝したからと言って、生涯ボートを担いで旅する馬鹿はいないと思うが、それが自分とは笑ってしまう。そんな我が身の愚かさに、必死になって、社会の歯車として回り続けた自分が憐れである。

しかし、そこはそこ、無理しても気品と尊厳を持って乗り越えていかねばならぬ訳で、人生に未練を残しては、あの世に生まれ変われことなく、再びこの世に再生されてしまう。

なぜなら、私達人間は元より天空から来たりし生命体の遺伝子を持っているからで、私達の故郷は地上になく、あの「かぐや姫」の来たりし天空にあるからである。

そんな想いに、今年の十五夜は極上の団子を買い求め、味を噛み締めながら食して、天空に想いを馳せようと想う次第である。

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