続文化

文化とは遊び心である。とても社会制度や社会システムでは補い切れない。遊びを善とし、勤勉もほどほどに憂いや悲しみに満ちた現実を離れ、暫し時を同じくして、想いを共にする喜びは何ものにもかえがたい。

そんな浮世離れした取り留めのない想いに現を抜かす生活だが、私はそんな風に生きられる都会が好きである。全てに感謝したいと思う。

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文化

文化とは、私達の生活全般を支える価値観や世界観や宗教観を表す言葉(概念)である。食べ物から普段の生活スタイル(様式)、地域の決まりや伝統行事や風俗習慣、マナーやエチケットなどの行儀作法や礼節、それに電気ガス水道や公共交通機関などの都市インフラや街並み、さらにそこに住まう住民の意識などが、その地域の風景と一体となってイメージされるが、そんな視点から韓国や中国の文化を伺うと、私達の文化とはかなりかけ離れているような気がする。

私的には、日本人の精神構造は、近隣の韓国や中国より、寧ろヨーロッパや東欧諸国の文化圏に暮らす人々の文化意識に近いような気がしてならない。

まあ、国家ぐるみで、嘘や虚妄を正当化する韓国やコピー文化の中国などのお国柄や民族性には、利得や欲得、妬みや恨み、裏切りや背信などと言った負のイメージや不信感がつき纏うが、彼らにとっては、誠実さや我慢を美徳とし、人としての道や正義を誇りとする日本民族の精神文化は、現実的でない愚かなものでしかないのかも知れない。

しかし、そんな日本人の美意識も戦後教育や昨今のグローバルリズムにより大きく変容し、中国人や韓国人のような超現実的なものにすり替わってしまった感もある。しかし、それはそれとして、私的には悠久の時の流れに耐え得る「万葉の美意識」に憧れ、そんな時空を超える想いを頼りに生きているような気がする。

そんな想いに、今日も音楽を聞いたり身の周りの整理などに追われ一日が終わってしまい物足りなさを感じる。

まあ、節分も終わり暦の上では春なので、改めて気持ちを入れ替え、明日からまた、新たな出合いを信じて頑張ろうと思う次第である。

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思わぬリスク

廃棄食品を家畜の餌にすると、共食いすることになり、それを食べた家畜が狂牛病になるらしい。だから、大手のコンビニチェーンが、食品リサイクルと称して、肥料ならまだしも家畜の飼料に有効活用するのは考えものである。

いま市場にどんな肉が出回っているか知らないが、知らずに食べていたとしたら、恐ろしいことになる。行政当局の適切な対応が望まれるところだが、とにかくアイデアだとか、コラボだとか、常識を覆す発想が持て囃される時代だけに、いろんな視点からリスクを回避する知識と知恵を持つ必要があるように思う。

それにしても、使い捨て、コスパ優先の時代がもたらす思い掛けないリスクである。食べることは知れてるから、食品は厳選して買い求めていこうと思う。

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希望

愛には不確かな希望がある。

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テニス

大坂なおみ選手が昨夜オーストラリアで行われた全豪オープンで優勝し、全米オープンに引き続き、4大テニスタイトルのうち2冠を征した。

マスコミやマスメディアは、彼女の勝利を日本人の快挙として、日本人のポテンシャルの高さや美徳を売りとする報道をしているが、彼女は米国のフロリダに在住する米国人で、そもそも全米テニス協会が彼女に関心を示さなかったことから、父親が日本人登録をしただけの話で、日本には3才までしか暮らしていなかったことからしても、日本人を売りとする報道には違和感を覚える。

つまり、勝因にルーツが日本人であることや、日本人の美徳とされる謙虚さや我慢強さを持ち出すマスコミの創作報道には、ラーメンの元祖が韓国のソールフードであると主張するお隣韓国流の歪曲捏造コメントに似たものがある。

また、彼女自身も「日本のテニスや日本人観を変える存在という声もあるが?」との質問に、「私は自分のアイデンティティーは深く考えず、私は私だと思っている。育てられた通りになってきている」と、また、「テニスに関しては、あまりというか、ほとんど日本のスタイルらしくないと思っています」とも、さらに、「日本の子どもたちにメッセージを」と言われると、「私を目標にしないでください。それまで責任が取れないです」とユーモラスに答えていることからも、彼女の勝因を日本人のポテンシャルの高さや「謙虚さや我慢強さやメンタリティ」に結びつけるには、多少無理があるような気がする。

まあ、そんな日本の「イエ」や「ムラ」社会的な発想を後生大事にして、狭隘な垢抜けないコメントをしているようでは、日本のマスコミも時代遅れである。なぜなら、彼女自身がアイデンティティなどどうでもよく、実力が一番なことを証明しているからである。

要するに、今は人やモノが自由に行き交うグローバルな時代である。毎日口にする食べ物の62%は海外で生産されており、身の回りの小物や服などは中国やベトナムで生産されたもので、裸にして計測すれば純国産の人など誰もいない。

そんなことから、私達は既に誰もが確たるアイデンティティを持ち得ない訳で、中国共産党の幹部の子供が米国籍を取得していることからも、目先の利く連中は将来性を見越して、自分なりの対策を講じている。

まあ、ネットを介して、瞬時に世界の情報が個人レベルで行き来する時代である。私の友人にも子供が米国で寿司職人をしているとか、IT企業に勤めているとか、家族ぐるみで香港在住の知人もいる。

グローバルリズムによる変化は、今や加速度を増し、この先何か起こるか分からない。東西の文化文明や価値観や世界観が激しく衝突し、核戦争が勃発して一挙に猿の生活に戻るかもしれないし、反対に何処かの国の覇権によって、とんでもない奴隷階級社会が構築されるかもしれない。

いずれにせよ、批判は簡単だが、現実は、馬鹿も悪党もいて成り立つ社会である。幾ら正論を述べてみても、そんな粗悪な連中もいるからこそ、今の生活が成り立っている訳で、如何なる言葉にも自己矛盾があることは否めない事実である。

そんなことから、変わりゆく世相に、無理矢理ノスタルジーを求めてみても意味はなく、過ぎ去れば、何ごとも忘れ去られ、意味を失う存在であることを知るべしである。

そんな想いに、つくづく勇気を持って、全ての差別や偏見から離れて、自由奔放に今を大切に生きようと思うが、季節は冬の真っ只中であるが、既に遠の昔にウィンタースポーツから離れた私の気持ちは、節分を乗り越え隅田川のお花見にある。それまで、暫しの辛抱である。体調管理に努め、温かい春に向け実りあるものにしていこうと思う次第である。

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意味

全てに意味を失う。風を追うようなものである。

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想い出

平成も余すところ100日を切り、昭和は益々忘れ去られていく。明治M、大正T、昭和S、平成H、となると、新元号はA、K、N、Y、R、Wの頭文字からと言うことになるが、とにかく縁起の良い元号にしてもらいたい。

しかし、昭和も遠くなったものである。ちゃぶ台を囲んで、家族そろってご飯を食べた頃が懐かしい。

夕暮れに仰ぎ見る輝く青空… 日が暮れて辿るは我が家の細道… 正に昭和レトロの想いが蘇る。

すべてに感謝したいと思う。

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生霊

「気合い」と言えば、直ぐにレスリングの浜口親子を思い出すが、大相撲や野球やサッカーなども、応援があるとないとでは雲泥の差で、気合いやファンの声援(気)には、否定し難いパワーがある。

また、大きな集会やイベントなどでも、場の雰囲気に呑み込まれないように「人」と言う字を手の平に3回書き、それを呑み込み、緊張や不安を和らげる「お呪い」があるが、その効果はいざ知らず、人が寄り集まるところには、何か目に見えぬ波動やパワーが存在することは確かである。

つまり、人は常に何か目に見えぬパワー(気や念力や波動)を発しており、政治家や芸能人や芸術家の中には、独特の魅力やオーラがありカリスマ性がある人もいる。

また、森や川や草木や動物、それに死者には精霊(せいれい)が宿り、食べ物や衣服や持ち物や住まいにも、それなりの霊が宿っており、さらに風水なども関係するから、気力や霊力には侮れないものを感じる。

また、人によっては、出会った瞬間に目の前がパッと明るくなり、憂鬱な気分や冴えない気持ちが一挙に吹っ飛んでしまうような人もいる一方、虫酸が走り身の毛がよだつような嫌な雰囲気の人もいる訳で、夫婦仲もパートナーの食べ残しを食べられるか否かが、離婚調停開始の基準になっているらしい。つまり、場の雰囲気を創り出す気や波動には、それなりに特別なメッセージが込められているらしい。さらに、言葉は言霊と言われることからも、不用意に使うと、失言では済まされない事態になることは、ご案内のとおりである。

ところで、今では一番身近な五反田駅に程近い泉岳寺には、創価学会や立正佼成会と並ぶ宗教組織「幸福の科学」の総本山があるが、そのトップである大川隆法総裁は瀬戸内寂聴や金正恩やトランプさんなどの多くの著名人を霊視しており、死者の霊言なるものも興味深いものがある。

そこで、ミイラ取りがミイラにならない程度に、スピリチュアルについて調べてみたが、一般的に、私達は祖先の守護霊に護られており、人によっては動物霊や「異常な執着」によって生み出される生霊(いきりょう)などが取り憑いており、特に生きている人が自分の霊を分離して飛ばす生霊に取り憑かれると始末に悪いらしい。

つまり、自己中心的で目的のために手段は選ばないマキャベリストや、 他者の気持ちに寄り添えず人の不幸の上に自分の幸福を平気で築けるサイコパスなどによるストーカー紛いの執着心には、生霊を飛ばす強力なパワーがあるらしく、飛ばす方も自分の霊力の一部を剥ぎ取って相手に飛ばす訳だから、気力や精力が失われる一方、生霊を飛ばされた方は、負のエネルギーを受け、物事が上手くいかなくなったり健康を害したりするらしく、読んでいる内に具合が悪くなった。

なぜなら、私は人に好意を抱いたり、気に障ることが結構あるからで、そんな想いや感情が生霊となって飛んでいったり、飛ばされてきては、気力や胆力が幾らあっても足らず、とても気楽に人とは交われないからである。

それに、芸能人や政治家や宗教家や医者や教師などは、人間を相手にする仕事だから、まともに毎日、生霊に晒されていることになる訳で、幾ら彼等が身体が強健であっても保たないような気がする。

そんなことから、霊能者やスピリチュアリストの中には、取り憑いた生霊を除霊したりお祓いしたりすることを勧めている人もいるが、普通の人ならそんな必要はないと思う。

しかし、気の合わぬ職場の上司の視線が気になり、首が回らなくなったなどと言う話はよく聞く話しで、兎にも角にも、人生の悩みの大半は「人間関係」にあることは確かである。

そんなことから、親子や兄弟や夫婦と言えども、持ち得る能力や気力や性格が違うから、お互いに相手を自分の尺度で計らず尊重し合って、「支配や依存」にならぬように気をつけ、適当な距離を保つことが、如何なる関係においても良好な関係を維持する秘訣に思え、愛憎に膨れ上がった生霊を飛ばしたり飛ばされたりすることを回避することにも繋がるような気がする。

まあ、自分の経験からしてみても、確かに窓口業務などで一日幾人もの人に接すると、内部業務より遥かに疲れの度合が違うから、やはり程よい距離感は大切だと思う。

また「目は口ほどにものを言う」とか言われ、幾ら隠しても気持ちは表情に表れるから、私的には、生霊に成らぬ距離感を持って、色気も食い気も隠さず深追いせずに、スマートに豊かに発散して、晩節を実りあるものにしていきたいと思う。

ところで、そんな視座から最近の世相に目を転じると、世界はどうも激動の時を迎えているようで、あいも変わらず韓国の文政権は反日感情丸出しの生霊を送ってくる。特に最近は、文政権による朝鮮半島統一の動きは高まるばかりだが、ここで下手に韓国側の提案に妥協すると、統一後に、それを逆手にとんでもない裏切り行為を喰らうことになり兼ねないから、平和憲法維持などと現実離れした理想に振り回されずに、現状を分析し適切な対策をする必要があるように思う。

まあ、少なくとも排他的であれ経済水域を侵されたら、拿捕して調べるくらいの強権を発動しないと独立国家としての威厳もなくなる一方、レーダー照射事件に絡む日本のジャーナリズムの的外れの報道には、何か背後に良からぬ勢力の思惑が伺え、事実を事実として詳らかする勇気ある報道を、ジャーナリズムは心掛けてほしいと思う。

そんな想いに、これからは、霊力や念力の視点からも、人に反感を買わぬように注意し、折りに触れ神社仏閣を参拝して、生霊や悪霊から難を逃れ、晩節をより実りあるものにしていこうと思う次第である。

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love

And I love her …

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権威

我が家のライオン丸です 病気療養中です

とにかく失敗や過ちの連続で、人生外れぱなしの私としては、最も信じられないのが自分である。そんな自分を何処かで見守り支えてくれる存在への憧れは、歳を増すごとに色褪せるどころか深まるばかりである。

かと言って、私は世俗の宗教を信じている訳でもなく、強いて言えば、憂いや悲しみに満ちた現実を超えたところに別な世界があって、そんな権威に憧れて暮らしていた中世ヨーロッパの人々の世界観が好きで、その時代の文化に憧れている人間の一人である。

ところで、そんなキリスト教文化一色の中世ヨーロッパの社会は、その後のマルチン・ルターによる宗教改革やルネサンスを経て、産業革命による功利主義や実存主義の洗礼を受ける中、近代物質文明の進展に伴うマテリアリズムの浸透により、今日世界は The end of modernity (近代の終焉 Postmodernity)の様相を呈しており、物質至上主義(科学、技術、お金)を、至上の権威と見做す一方、今や誰もが自分自身の能力と世界観を信じることを理想とし、そのアイデンティティの下に行動しているように思う。

つまり、人の数だけ世界が存在するという相対的な世界観による権威立てによって、全てが企てられ正当化されている訳で、これではいくら納得いく妥協点を見出したとしても、変化と多様性の中に、状況次第でいつゴールポストが動かされるか分からない訳で、常に一抹の不安を抱えることになる。

このことは、俗に言う「今、オレ、金」の今日的な世相に反映されており、そんな利己的な金銭感覚が、企業経営やマーケティングの世界で肯定され、評価されているところに、恐ろしさを感じる。また、そんな感覚で私達の自律が定義され肯定され存在の証とされたら、神聖なる男女の関係も、駆け引きやビジネスを前提とする男女の関係(性差に基づく関係性)にしか思えなくなってしまう。

まあ、平たく言えば、今の時代は、愛もお金で買う買える時代なのである。一方、物理学や数学の進展は、「神の不確実性」を浮き彫りにし、今や知識人だけでなく庶民レベルにおいても、己の感覚や感性を信じ、真剣に見えぬ世界の権威を、お互いのアイデンティティとする人は稀だと思う。

要するに、見えぬ世界の存在に気づき、憧れながらも、その権威が狭隘化し、誰もが紐付かない寂しい時代になり、その意味から、信仰はより潜在的な個別なものになってしまった気がする訳で、言葉が言葉として意味を為さなくなったように思う。

仮に、平行するパラレルワールドにおいて、全てが詳らかにされ、霊魂が不滅だとしたら、死することは安らぎどころか恐怖であり、死後にパラレルワールドにて、如何に自分の立場を離れて公平に物事に接し正義を実践したかが問われては、その時点で、私はアウトであり、死すことは恐怖以外の何物でもない。

まあ「知らぬが仏」などと高を括っていると、あの世で赤っ恥をかくことになる訳だが、ただ、あの世を見た人がいないことが現世の救いであることは確かである。

そんな訳で、何か文脈が支離滅裂になってしまったが、要するに、科学技術や物質文明の進展は、変化と多様性の中に、私達の不確実を助長し、さらに時間的にも空間的にも世界が狭隘化する中、通信技術の進展から世界の現実を世界中の人々が同時に目の当たりにする訳で、そんな時代背景を背に、皮肉にもグローバリズムは、人やモノや情報の交流を加速する一方で、様々な文化文明の衝突を生み、世界統一が図られるどころか、混乱と秩序の崩壊を助長し、その終焉において、私達の精神性をも破壊してしまった感がある。

そんな想いに、最近頓に感じることは、己の理性を頼りに、幾ら己の存在を証してみても、それは単なる自己満足に過ぎず、バッハやモーツァルトやシューマンやショパンが世俗化する宗教を背にしながらも、その楽曲に秘めた神聖なる想いに、見えぬ世界の存在と権威を感じる私としては、フラッシュなインスタントな一過性に終る物質文明の功罪を改めて痛感する次第である。

まあ、変化と多様性の中に、変わらぬ存在と権威が見い出せない今日、私達の幻想や妄想にも似たVRの世界にハマるのもありかもしれない。しかし、私的には朽ちていく現実に、その真意を何とかして確かめたいと思うが、改めて、己の無知無明を痛感する次第である。

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