KY

00270215-092506.jpg2月に入って冬真っ只中と言った感じで、とにかく寒い。そんな寒い日が続くので、特に高齢者は頭髪が薄くて寒いのか、帽子をかぶっている人が多い。そんな中、先日出会った高齢者が「Mercedes-Bez」と刺繍がしてある帽子を被っていたが、とてもMercedes-Bezらしからぬ「みすぼらしい帽子」で、これではブランド(ステータス)が台無しである。

そんなことから、改めて商標やブランドや「のれん」などについて考えてみると、何処か、門地門閥、学齢や職業や役職などにも言えることだが、私達はステータスに極めて弱く、何の疑いもなく信用してしまうところがある。

仮に、ブランド物に拘っていなくても、私達は何らかのエンブレム(思想信条)を胸に生きている訳で、何があっても譲らない、いや譲れない訳で譲れる様ならエンブレムではない。

そんな中、先日テレビで前東大総長の小宮山宏氏が、グローバル化に伴い日本が技術大国として先端技術で生き残るには、アメリカの様な自由な研究の場が必要であると同時に、「独創的な発想を生むKY=空気読めない人」でも自由に活躍できる社会であることが必要であると語っていたが、そんな価値観がバラバラな連中ばかりが増えたら、組織の統率力が失われさぞかし難しい社会になるのではないかと思う訳で、それには日本人一人ひとりが欧米のように「完全なる個」としての意識を持って生活する必要がある訳で、個人の思想信条を超えた、個性を束ねる何らかの御旗(エンブレム)が必要だと思うのである。

また、今の日本は高齢化が進み、助け合いや支え合い、人々の絆や連帯の輪の大切さが、神戸や東日本の震災の教訓も含めて、改めて思い知らされる訳で、エリート教育の現場でKYが肯定され、それを容認する社会を目指すとなると、私的にはどうにも腑に落ちない訳で、仮にそれを目指すのであれば、今まで以上に私達日本人を一つに束ねる「より強い連帯意識」を醸成する工夫がなくてはならない訳で、それには価値観や世界観を共にする何らかの御旗(エンブレム)がなくてはならないように思う。

いじめや虐待や家庭内暴力やセクハラや無差別殺人が報じられ今日の日本にあって、これからKYと言われるエリート集団が、如何なる誇り高き「エンブレム(価値観や世界観)」を胸に、そのお手本を示し、安全で安心な社会を創造されるのか見てみたいものである。

うまくいくといいと思うが、ご案内のように、米国には元C1Aの職員エドワード・スノーデン氏のような人物もいる訳で、一人のエリートが多くの庶民の平穏無事な生活を脅かしている事実もある訳で、アメリカのような、建国の基をキリスト教(プロテスタント)に置く国でさえ、エンブレムを同じくし得ない危険性があることを肝に銘じておくべきだと思う。

そんな訳で、今日の生活レベルを維持するには、これからも今後も多くのエリート達の尽力によるものと思われるが、その人達の行動や活動が多くの人達の犠牲の上に成り立つものならば寂しい限りで、そのエンブレムも地に落ち栄光を失うことになり兼ねない。

まあ、私的には「日本人はボロを着てても心は錦」でありたい訳で、先進技術の開発もさることなかれ、日本人は「お天道様に恥じない心の錦」が大事であって、そんな錦こそ教育現場の基に据えて、共に歩んでいかねばならないのではないかと思う次第である。

 

jpjapon について

3匹の犬と優しいけど時々意地悪な元気なおばさんと桃やブドウに囲まれた田舎で暮らしています。音楽と写真が大好きなパソコンフリークです。日々の想いを、聖書の御言葉や御仏の教えを交えて仲間と語り合うのが大好きです。平凡な日常から垣間見る世間の出来事を、自分流に書き綴っていきたいと思います。
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