是非善悪

とにかく、人間ほど自己中心的で依存的で責任転嫁が上手な生き物はいない。大義名分さえ整えば、平気で人を利用し傷つけ人殺しもする。

それを証拠に、今でも、国や民族や国家体制や宗教観の違いから、世界中で日夜たくさんの人が殺されている訳で、見方によっては政治や宗教、法律や社会制度なども、一部の支配階層の既得権益を守る方便に過ぎない。

まあ、「盗人にも3分の理」とよく言われるが、うっかりしていると他民族に侵略されてしまう大陸では、自己中心的にならざるを得ない訳で、そんな地域で、日本のようなお人好しな生活は望む術もない。

著作権や商標権の侵害もお構いなしに、手当たり次第周りのものを利用し、紛い品やコピー品は当たり前、目利きが利かぬ買い手が悪いと言うお国柄も理解できる。

その一方、狭い国土に人がひしめき合う日本では、少ない資源を平等に公平に分かち合い、法律や社会制度、風俗や習慣、モラルやエチケットに従い、皆が「信用第一に」暮らしていることも納得できる。

まぁ、簡単に言えば「郷に入っては郷に従え」で、それぞれの土地柄に沿って身の安全と安心を確保し、楽しく生活するしか手立てはないと思うが、それにしても、今日のグローバル化に伴う「価値観や世界観の多様化」には目を見張るものがある。様々な文化文明の衝突の結果、どんな社会が形成されるのだろうか、考えると一抹の不安を覚える。

まあ、ここまで混沌とした社会になると、善悪や真偽の判断も難しく、自らの脆弱性を「他者への依存」を頼みとする私としては、結局は保身なのに、家族や社会や、法律や世間の常識や、宗教や哲学を盾に、負い切れぬ責任を他者に転嫁しまくって、随分罪深い人生を歩んできたような気がする。

中には、何らかの権威や大義名分によれば、正当化されるものもあると思うが、全ての権威から離れて、一人の人間に立ち還れば、善悪や罪のあり様も異なる訳で、その贖いも極めて難しく思える。

仮に、善悪をテーマに考えてみても、イスラム過激組織では、無差別テロが神の名の下の善行であり、中国共産党の他民族殲滅政策や北朝鮮の独裁政権、韓国の文在寅体制の反日政策なども考えてみれば、普遍的な人道的な立場からすると、社会的な善には程遠いような気がする。

同様に、日本でも、外国の良からぬ勢力の手先となって「自由、民主主義、人権、法による支配」を盾に利権に群がる日本のグローバルエリート(特権階級)達の所業に、普遍的な社会の善を期待するのも無理があるように思う。

「保育園落ちた日本死ね」に始まる政治家や芸能人の不倫疑惑やスキャンダル、大相撲の日馬富士の引退から富岡八幡宮の宮司殺傷事件まで、何か社会の善悪の基準そのものが狂っているような気がする。

そんな中、すべての権威から離れて、自分を見つめ直せば、如何に人間として多くのものを責任転嫁してきたような気がするわけで、その罪の重さを痛感する。

そんなことから、これからは、一人の人間として、如何なる権威にも頼らずに「自己選択、自己決定、自己責任の姿勢」に徹していこうと思うが、それにしても、本当に人間は罪深い生き物だと思う。

そんな訳で、今年もいよいよクリスマスの到来である。下の孫は何やらプレゼントがほしいようで、そろそろプレゼントを手配しなくてはならない。

そんな世俗に営みに、世俗化した教会組織はさておいて、私たちの贖罪に降臨した主イエス・キリストの生誕を、心から喜びお祝いしたいと思う。

人は人に傷つき人に癒されるとは言え、人は人を救うことはできない。そんな想いに、今日も「愛と正義と勇気」を信じて、新たな出会いに、自分の居場所を見つけていこうと思う次第である。

それにしても、こんな想いも罪に至るのだろうか? でも若い時は二度ない。どうせ捨てきれぬ自我である。チャンスがあれば、チャレンジすべきだと思う。

jpjapon について

3匹の犬と優しいけど時々意地悪な元気なおばさんと桃やブドウに囲まれた田舎で暮らしています。音楽と写真が大好きなパソコンフリークです。日々の想いを、聖書の御言葉や御仏の教えを交えて仲間と語り合うのが大好きです。平凡な日常から垣間見る世間の出来事を、自分流に書き綴っていきたいと思います。
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