コロナ禍や高齢化に伴う健康不安に対し、特効薬のような触れ込みのマーケティングが最近多くなったように思う。
そもそも、何事も壱発勝負で物事が解決することはない。そんなことを触れ込む人は善意からだとしてもどうかと思う。
特に、精神的な不安に乗じ利益誘導に走る宗教関係者には憤りを感じる。まさに、聖書や仏典は正しくも、それを説く人間の罪深さを痛感する。信仰はまさに「人に依らず、法理に依る」ことに尽きると思う。
その意味において、最善の努力を払うことに勝るものはなく、何も努力もしないで、神仏を崇め奉っていても、ろくな事はない。要するに、努力の方向が違っているわけで、現実的に根本的な解決にならないと思うが、そんな人の弱みにつけ込んで、利得に喜ぶ精神構造には、人の不幸の上に自分の幸福を築けるサイコパス的のものが漂う。
恐ろしいことである。本来なら、人は人を救えないとしても、励まし元気付けて、生きる気力と希望を無償で与え続けるべき人間が、信者からの貰い物や利得に、神仏の御心や恩寵を説き、信仰を勧めるとは情け無いにもほどがある。
そんなわけで、つくづく信仰に立つ意味を痛感するが、それを説く人間の罪深さを、改めて痛感せざるを得ない。
確かに、あらゆるものがある意図を持って形成されてある事は事実なので、すべてのものに霊魂が宿ることは確かである。ゆえに、いわれなきものには関与しない事が、災難を回避する秘訣でもある。
そんな想いに、人に依らず、神仏を崇め奉り、己の力を信じて生きることの尊さを痛感するが、人生は己れの業(カルマ)とご縁(出会い)にあるから、如何なる縁起も己のカルマに深い内観なくしては、良いご縁にも巡り会えないと思う。
いずれにしても、今はコロナ禍にあるので、デジタル及びアナログを駆使した出会いへのアプローチを模索する必要がある。
ポストコロナを目前に、デジタルリテラシーの必要性を改めて痛感するが、幸いにも通信料もこの春から通信各社が大幅に値下げしており、私もドコモのアハモにエントリーしたが、この手のサブスクリプションは積もり積もると馬鹿にできない。
そんなことで、今朝は夜が明ける前に目が覚め、このブログを書いた次第だが、今日も元気にやれそうなので、改めて、すべてに感謝したいと思う。