日本の教育の欠点は、偏差値教育の乱用に尽きる。比較対照することで学力は上がるかも知れないが、自分とは違う社会の評価基準で自分の価値を判断してしまうことになり、若くして不要な劣等感を植え付けてしまい兼ねない。
一方、社会にあっては仕事の実績や業績がその人の人となりより珍重される訳で、そんな基準で自分の価値を推し量ったら居場所がなくなってしまう。
本来、この世は弱肉強食、私達は日々過当競争に晒されている。正に、人生は憂いと悲しみに満ちており、生きることは苦しみである。しかし、そんな中にも、時には母の懐に抱かれて眠る安らぎや癒しを思い出すこともある。(希にイジメや虐待の毒親もいるが…)。
要するに、私達は無情の愛なくしては、そもそもこの世に存在し得ない訳で、それは、周りの人やモノを通して、見えぬ存在の力によるものではないかと思う。
まあ、これは私のもの、これも私のものと我欲、我執に生きても、そもそもの自分は、元を正せば偶然や必然はともかく、自分とは違う存在によって存在せしめられている訳で、そもそも自分などいない、自分のものなどない。そんな大きな勘違いや思い違いや思い込みの中に、私達は悶々として暮らしているのが現実である。
そんなアホらしい世界観や価値観に囚われていては、大地の恵みの本質も知らずして死んでしまう訳で、実に勿体ない話しである。
そもそも、生まれた時点で、人は手のひらにそれなりにお米を持って生まれてきている訳で、人それぞれ違うのは当たり前、それそこが生命の本質である。
つまり、社会がどうであれ、いつも自分の本質は変わらない訳で、現実には遺伝によるものが大半である。豚からタヌキは生まれないからである。
そんな生き様に、世間様がどうであれ、自分を見失わない根性さえ持っていれば、あらゆるリスクを回避できる訳で、とにかく居心地の悪い関係性だけには深入りしない方が無難である。まあ、お釈迦様の時代から、私達は「怨憎会苦」と言われる娑婆に暮らす身の上だから、それなりに避けて通れぬ処世術が必要になることは言うまでもない。
そんな訳で、人生は一寸先は闇、聞けば国産や外国産を問わず、最近の肉類はコロナ絡みでかなりヤバイらしく、昨日もサバの切り身を見てみたら国産でなくノルウェー産だったのには驚いた。これではいざ有事となれば、スーパーの棚から食品が消えることも想像に難くない訳で、昨今の世相から、そんな心の準備も必要かも知れない。
そんな想いに、今日もお陰様で元気に目覚めたので、昨日に負けじ劣らず、大地と天空をお伴に畑やDIYや料理を楽しもうと思う。改めて、今あることに感謝したい。