幼児は無邪気(邪気がない)だから、野鳥がそこらじゅうのものを啄むように、気の向くまま思いのままに生きている。
それが7歳頃になって自我に目覚めると物事の後先を考えるようになって、気が向くままとはいかなくなる。成長とともに自分と言うものを認識するようになるからで、それは正に自我であり邪気でもある。
そんなことから、人は七五三の7歳までは「神様の子」として神様が全面的に守ってくれるが、そこからは自分の力で生き抜いていかねばならない。
そんな流れに、いろんな呪縛に雁字搦めになって自分を見失い苦しんでいる人がいるが、そもそも邪気を捨てれば苦しみから解放される訳で、それはとりもなおさず自我であり、ある種の拘りや思い込みであり、理性かも知れない。
まあ、物事は一度踏み出すと後戻りできないから、なおさら拘りや因果律の転生の輪っかに嵌まってしまう訳で、気持ちを切り替えることは至難の技である。
言い換えれば、一度目覚めれば二度と戻れないのが自我であり、自我に生きる限り物事の後先を考えるから、心が解き放たれることはまずない。
よく物事に没頭して「寝食を忘れる」ことがあるが、そんな時が自我や邪気から解き放たれ、無邪気な子供に帰れる時かも知れない。
まあ、人生も行き詰まれば、幼児化して後先などどうでもよくなるが、そんなことも妙に頷けるものがある。人生、明日も過去もない。今があるだけ、物事は形成されればその瞬間から崩壊の一途を辿る訳で、栄枯盛衰は物事の理である。
そんな理の中、夜の静寂に癒され、改めて今あることに感謝したい。