私たちは想いを様々な形で表現しているが、想いは言葉にすることで事実になる。だから、想いがなければ言葉にはならないし、また、想いがあっても言葉にしないと、例え事実であっても事実にならないのである。
つまり、想いを言葉にしなくては、事実は事実になり得ないのである。反対に、想いを言葉にしさえすれば、例え偽りであっても嘘という事実になるのである。
ここに今、仮に絶世の美女がいたとしよう。その美しさを写真や絵や音楽で表現したとしても、それは究極の表現ではない。それは飽くまでも間接的な表現であって、その表現に触れて発する Ravissante や Ti amo と言った言葉が究極の表現であって、この言葉によって、想いは事実となるのである。言葉とは何てすばらしいものなのであろうか。
しかし、このようなすばらしいツールを私達は持ちながらも、物事の真実や真理を上手に伝えることができないのである。いや、伝えられないのではなく、私達が真実や真理と思っていることが、実は単なる思い込みや不完全なものであって、真実でも真理でもないからである。もっといえば、私達は真実や真理を解き明かせないのである。
だから、どうしても解き明かせない真実や真理を追い求めて、私達は飽くなき好奇心と探究心を持って、物事を見極めようとしているのである。愛を語り愛を確かめ合って、分からない想いを解き明かそうとしているのである。なぜ、そう想うのか。なぜに胸躍るのか。なぜに、人恋しいのか、分からないのである。その謎を私達は生涯を掛けて解き明かそうとしているのである。
それゆえに、如何なる教えであっても、私達が持つ根源的な想いに対する相対的な解が真実や真理であって、それは絶対的な解ではないのである。だから、信仰とは、真実や真理や愛の形を絶対化し信じることでなく、人生のあらゆる場面において、その相対的な解を求めていくことではないかと想うのである。