想い

私達は、生まれながらにして、多くのものを一方的に背負わされ、日々の生活に追われている。ふと我に返れば、心の奥底に潜む本当の自分の叫び声が聞こえてくる。本当の自分とは何なのか、自分探しの旅は果てしないそれも、多くのものを犠牲にし誤ちと罪を繰り返す旅なのである。そんな旅を続けることに、果たして意味があるのだろうか。甚だ疑問である。

しかし、誰しもがそんな己の存在を証しする旅を続けているのである。それは、どうしても、どうあっても、己の存在を肯定する根拠が欲しいからである。しかし、血縁や一族、地縁や国家など、共同体への忠誠心とその責務や絆が弱まる現代社会において、ためらいもなく、己の存在を肯定し得る人は少ないのではないだろうか。多くの人は己の存在を証しできずに、日々の生活に追われているのである。なぜなら、それは、私達は生まれながらにして、母にあやされて微笑みを返すように、他者が求める仮の自分を演じているからである。そして、皮肉にも、個性が重視される今日の社会では、共同体に属するには、共同体に属しない個としての自分を支えるイデオロギーや神が必要になるのである。

生きることは苦しみである。常に過ちと罪が隣り合う辛く厳しい営みなのである。よりよく生きようとすればするほど、私たちは厳しく善悪が問われ、必ず罪や過ちを犯すことになる。そして、さらに、己の存在を証するためには、その罪や過ちを肯定する根拠が必要となるのである。

そんな私達の想いは果てしない。時も留まることを知らない。その謎を探し求める旅は、神仏の教えを道標としても、それはゴールではない。立ち止まった時がゴールであり、神仏の教えは、そのゴールに至る助けであり、この世を生き抜くテクニックなのであって、己の存在を裏づけるものでも何でもない。なぜなら、常に移り行く物事の道理をすべて見抜けないからであり、分からぬことを無理やり根拠づけても、それは反って物事の本質を見失ってしまうからである。

正に、生きることは苦しみである。そして、その苦しみには意味がある。しかし、誰しもその意味が分からないのである。常に残るその苦しみに、その渇きに、その存在の不安に、どう立ち向かうかが問題なのである。そして、それは自分を深く見つめ直すことに他ならないのである。

そんな想いに駆られながら、明日に夢を託す自分が悲しい。多くの証を失い、想いは果てしなく、いくら語っても語り尽くすことはない。正に、無明の為せる業である。

 

jpjapon について

3匹の犬と優しいけど時々意地悪な元気なおばさんと桃やブドウに囲まれた田舎で暮らしています。音楽と写真が大好きなパソコンフリークです。日々の想いを、聖書の御言葉や御仏の教えを交えて仲間と語り合うのが大好きです。平凡な日常から垣間見る世間の出来事を、自分流に書き綴っていきたいと思います。
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