ご案内のように、讃美歌301番は
「山辺(やまべ)に向かいて、我(われ)目をあぐ
助けはいず方(かた)より 来たるか
天地(あめつち)の御神より 助けぞ我(われ)に来たる…」
と言うくだりで始まる聖歌であるが、この賛美歌は、母校青山学院の国語の教師だった別所梅乃助氏が、詩編121篇をモチーフに作詩したものである。
参考:詩篇121篇
「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。
わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから。
どうか、主があなたを助けて 足がよろめかないようにし、まどろむことなく見守ってくださるように。…」
ところで、この聖句は私達が神に救いを求めている訳であるが、私は反対に山辺に向かうと、山の遥か彼方から目に見えぬテレパシーのようなものが、私にコミットしてくるような気がしてならない。
正に「山辺に向かいて目を上ぐ。この想いはどこから来るのだろう。」と思うのである。
ところで、今年もクリスマスが終わり、あと数日を残すばかりとなった。
例年のごとく、忘年会やクリスマス会で体調も乱れ気味であるが、職場や同窓生との忘年会もそれなりに楽しいが、私は大の音楽好きなので、音楽をモチーフにしたクリスマス会の方が楽しい。
まあ、普段全く会う機会のない人たちとの再会も、 お酒の力を借りるまでもなく、 音楽によってすぐに心がつながり実に心地よい。
そんな想いを数人に振ってみたら、クリスチャンに限らず、このような場に集まる私達は、何処かベースが同じではないかとの結論に達し、正に「類は友を呼ぶ」ことを改めて感じた次第である。
しかし、今年は例年とはちょっと違った思いが頭をよぎった。それは、例え「想いを分かち合えるイベントや趣向」であっても、余りにも凝り過ぎると、却って純粋な想いや気持ちが損なわれてしまうような気がして、極論を言うと、人間が創り出すものへの神の警告みたいなものを感じた訳で、神の怒りに触れバベルの塔が崩壊し、話す言葉を失い、私たちが転々バラバラに、アリを散らすように「心離れ」していくような気がしたのである。
まあ、結論を言えば、人は互いに想いを通わせなければ生きてはいけない。だが、それもほんの束の間一瞬であって、偶然と必然が織り成す蜃気楼のようなもので、固執すれば負担や依存といった不自由な関係になってしまう。喜びは束の間、それゆえに鮮やかすぎて悲しいのである。
そんな思いに、来年は一つ人間界から離れ自然界に目を転じ、写真や動画を通して、花や動物や山や海などの風物や風景と想いを通わせてみようと奇妙な衝動に駆られ、そんな内なる声に従って、感じるままに人様のご迷惑にならぬよう自由に生きてみたいと思う次第である。