「我れ思う、ゆえに我あり。」とはフランスの哲学者デカルトの著書「方法序説」にある命題であるが、まさに、我あると思うがゆえに我があるのである。
この不確実な不条理な想いを抱いて旅するのが、人の一生であるが、遠くは西遊記の三蔵法師の原天竺への旅が思い浮かぶ。お供の孫悟空は觔斗雲(きんとうん)で空を猛スピードで駆け巡ったようだが、所詮はお釈迦様の手の内にあったと言われる。フランスのメーテルリンクの童話劇「幸せの青い鳥」には、幸せを追い求め疲れ果て深い眠りから覚めたとき、家の野鳩が青い鳥であったことに気づいたと書かれている。
正に、このことは、遠方への旅をするまでもなく、路地裏に咲く一輪の花や見慣れた風景に、その想いの不条理性を消しきる何かが存在することを示しているのである。それは、人は天空より来ると聖書に書き記されているように、私達が想いやイメージの中に生きるものであることを暗示しているかのようである。
すべてのものが、想うが故に形創られ、その想いを持って人は満たされるのである。しかし、それが一度形ある現実のものとなると、その想いはきらめきを失い、また、新たなイメージや想いを追い求めて生きるのが人間なのである。なぜなら、私達はイメージの世界にしか生きられないからなのである。想いが形を創り出し、その形を通してその想いの中に生きるのが人間なのである。
されば、その想いを形創るものは何だろうか。それは、他ならぬ「ことば」である。ことばは神であると言われる。ことばによって想いが生じ、その想いがものを形造るのである。そして、その想いの中に私達は生きるのである。
すべてがイメージ、想いの中にしか存在しないのであれば、私は美しく心地よい愛のことばをいつも語り聴いていたいと想う。愛はイメージであり想いであり神であるからである。そして、いつも追い求めなければ、消え失せてしまうからである。儚い天空に行きかう想いは無限で哀歓に満ちている。