権威

我が家のライオン丸です 病気療養中です

とにかく失敗や過ちの連続で、人生外れぱなしの私としては、最も信じられないのが自分である。そんな自分を何処かで見守り支えてくれる存在への憧れは、歳を増すごとに色褪せるどころか深まるばかりである。

かと言って、私は世俗の宗教を信じている訳でもなく、強いて言えば、憂いや悲しみに満ちた現実を超えたところに別な世界があって、そんな権威に憧れて暮らしていた中世ヨーロッパの人々の世界観が好きで、その時代の文化に憧れている人間の一人である。

ところで、そんなキリスト教文化一色の中世ヨーロッパの社会は、その後のマルチン・ルターによる宗教改革やルネサンスを経て、産業革命による功利主義や実存主義の洗礼を受ける中、近代物質文明の進展に伴うマテリアリズムの浸透により、今日世界は The end of modernity (近代の終焉 Postmodernity)の様相を呈しており、物質至上主義(科学、技術、お金)を、至上の権威と見做す一方、今や誰もが自分自身の能力と世界観を信じることを理想とし、そのアイデンティティの下に行動しているように思う。

つまり、人の数だけ世界が存在するという相対的な世界観による権威立てによって、全てが企てられ正当化されている訳で、これではいくら納得いく妥協点を見出したとしても、変化と多様性の中に、状況次第でいつゴールポストが動かされるか分からない訳で、常に一抹の不安を抱えることになる。

このことは、俗に言う「今、オレ、金」の今日的な世相に反映されており、そんな利己的な金銭感覚が、企業経営やマーケティングの世界で肯定され、評価されているところに、恐ろしさを感じる。また、そんな感覚で私達の自律が定義され肯定され存在の証とされたら、神聖なる男女の関係も、駆け引きやビジネスを前提とする男女の関係(性差に基づく関係性)にしか思えなくなってしまう。

まあ、平たく言えば、今の時代は、愛もお金で買う買える時代なのである。一方、物理学や数学の進展は、「神の不確実性」を浮き彫りにし、今や知識人だけでなく庶民レベルにおいても、己の感覚や感性を信じ、真剣に見えぬ世界の権威を、お互いのアイデンティティとする人は稀だと思う。

要するに、見えぬ世界の存在に気づき、憧れながらも、その権威が狭隘化し、誰もが紐付かない寂しい時代になり、その意味から、信仰はより潜在的な個別なものになってしまった気がする訳で、言葉が言葉として意味を為さなくなったように思う。

仮に、平行するパラレルワールドにおいて、全てが詳らかにされ、霊魂が不滅だとしたら、死することは安らぎどころか恐怖であり、死後にパラレルワールドにて、如何に自分の立場を離れて公平に物事に接し正義を実践したかが問われては、その時点で、私はアウトであり、死すことは恐怖以外の何物でもない。

まあ「知らぬが仏」などと高を括っていると、あの世で赤っ恥をかくことになる訳だが、ただ、あの世を見た人がいないことが現世の救いであることは確かである。

そんな訳で、何か文脈が支離滅裂になってしまったが、要するに、科学技術や物質文明の進展は、変化と多様性の中に、私達の不確実を助長し、さらに時間的にも空間的にも世界が狭隘化する中、通信技術の進展から世界の現実を世界中の人々が同時に目の当たりにする訳で、そんな時代背景を背に、皮肉にもグローバリズムは、人やモノや情報の交流を加速する一方で、様々な文化文明の衝突を生み、世界統一が図られるどころか、混乱と秩序の崩壊を助長し、その終焉において、私達の精神性をも破壊してしまった感がある。

そんな想いに、最近頓に感じることは、己の理性を頼りに、幾ら己の存在を証してみても、それは単なる自己満足に過ぎず、バッハやモーツァルトやシューマンやショパンが世俗化する宗教を背にしながらも、その楽曲に秘めた神聖なる想いに、見えぬ世界の存在と権威を感じる私としては、フラッシュなインスタントな一過性に終る物質文明の功罪を改めて痛感する次第である。

まあ、変化と多様性の中に、変わらぬ存在と権威が見い出せない今日、私達の幻想や妄想にも似たVRの世界にハマるのもありかもしれない。しかし、私的には朽ちていく現実に、その真意を何とかして確かめたいと思うが、改めて、己の無知無明を痛感する次第である。

jpjapon について

3匹の犬と優しいけど時々意地悪な元気なおばさんと桃やブドウに囲まれた田舎で暮らしています。音楽と写真が大好きなパソコンフリークです。日々の想いを、聖書の御言葉や御仏の教えを交えて仲間と語り合うのが大好きです。平凡な日常から垣間見る世間の出来事を、自分流に書き綴っていきたいと思います。
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