愛犬のクーちゃんが亡くなって1ヶ月になる。一年猶予に亘る点滴治療の末の大往生から、生きることの意味を教えてもらった気がする。
亡くなる1か月前からの殆ど寝たきり状態が続き、それでも亡くなる2日前まで、渾身の力を振り絞ってトイレに立ち上がる姿には、何時も挫けそうな自分と違って、生き抜こうとする鮮烈な想いと意志を感じた。
「明日は我が身」である。果たして、クーちゃんのように気丈夫に振る舞えるかどうか分からないが、そうありたいと思う。
そんなことで、今は一人残されたジャニアン君が、時折り寂しげに窓辺で黄昏ている。壁に向かって黄昏ている時もあり、そんな時は心配で不安になるが、それでも留守して週末に帰宅すると、元気に足元にじゃれついてくるので、ひとまず安心する。まあ、ジャニアンくんも御歳17歳6ヵ月なので大切にしてやろうと思う。
そんな訳で、今年の秋は一昨年の暮に亡くなったTiffanyに引き続き、愛犬クーを失い、残されし者の悲しみに暮れる秋になってしまった。時折りスマホでアップした写真や動画を観てしまうが、今でも涙が止まらない。病気してシャンプーしてやれないクーちゃんは臭かったが、そんなクーちゃんの匂いが忘れられない。
日溜りに、息絶えたクーちゃんを抱いてお日様の日を浴びたことが昨日のことのようである。時はすでに冬であるが、私とクーちゃんは未だに秋から抜け出せない。
そんな想いに、すべてに感謝したいと思う。