差別や偏見のない自由で平等な社会は理想だが、現実はその真逆で、人種や性別、門地門閥、学歴、地位や財産など、差別や偏見を数え上げたら切りがない。
しかし、私達は物事を判断するには、事象を分けて分析しないと理解(分けないと分からない)できない訳で、それはとりもなおさず「分別や差別」を意味する。
仮にネットで注目に値する人物に巡り会ったとしたら、自然とその人が信頼にあたる人物か、その人の経歴を調べる訳で、その時点で差別していることになる。ネット右翼や左翼だったり、過去の言論や炎上などから、それなりの意識で接するようになる訳で、生活していく上で、物事の適否を判断するには、差別や独断と偏見は排除できない。
そんな視点から今の世相を眺めれば、「差別や偏見なき自由と平等な社会」と言う建前とは裏腹に、現実は犯罪が増え社会秩序が乱れ極めて危ない社会に突き進んでいくような気がしてならない。
まあ、自分も含め「人間ほど恐ろしい生き物」はない訳で、人間の闇が吐出してしまうような社会は健全な社会とは言えない。いま、正に富裕層や支配階層セレブの人達の生活ぶりをネットなどで拝見すると、全てではないが、お金や女性や酒やドラッグを巡る不健全な生活ぶりが浮き彫りになる訳で、隣国のハニートラップに引っ掛かった政治家もかなりいるらしい。
まあ、人間の欲に絡む醜聞もここまでおっぴらげになってくると、政治や社会権威の喪失や崩壊は免れないが、それでも一応、「法律による支配や秩序」は遵守していかねば、健全な社会は保たれない。
まあ、何を鏡に物事の適否を判断するかは、人それぞれだが、少なくとも、世間の風評やマスコミやマスメディアによるプロパガンダを闇雲に信じ込むのは危険である。現実を直視し向き合い自分軸をしっかり持って、社会通念や常識に振り回されない意識が大切である。
それにしても、スマホの進化ではないが、日々激変し多様化する時代背景を背にして、自分なりの鏡を適正に磨き直す作業は困難を極める。日夜激動する社会の流れの恐ろしさを痛感せざるを得ない。
そんな訳で、こんな時だからこそ、社会が言う「公正や平等意識」に振り回されないで、自分なりの価値基準や判断基準を常にリファインして物事に臨むべきではないかと思う。
それにはやはり、マスコミやネットのバーチャルな情報ばかりでなく、リアルな社会の有り様を観察し、それなりに意識を書き換えることが必要ではないかと思う。
そんな想いに、今日も何とか無事に過ごせた。改めて今あることに感謝したい。
それにしても、このカンツォーネは優に半世紀以上も前のもので、文化芸術の尊さを実感する。