飽くなき自由を求めて

「ローマは1日にしてならず」と言われるが、私達はこれまでに多くの偏見や差別や不平等を乗り越え、今日の自由を勝ち取ってきた。それは、1865年の南北戦争終焉まで奴隷制が存続していたプロテスタントの国アメリカでさえ、ケニア出身のイスラム教徒の父を持つバラク・オバマ氏が第44代米国大統領に就任していることからも、その経緯が計り知れる。

つまり、私達の想いがひとつになれば、アフリカ系米国大統領も誕生するのである。自由とは、与えられるものではなく、自分達の想いを結集し勝ち取るものなのである。しかし、今日の日本の現状は、先の参院選の投票率が52.61%と低く、自らの自由を勝ち取る意思が見えない状況にある。

有史以前から、私達は飽くなき自由を求めて、安全で安心な社会を築いてきたのに、年間3万人とも言われる自殺者や、家庭や学校や職場でのいじめや虐待や、テロや無差別殺人が社会問題化する中、道徳観や倫理観が失われ、礼儀作法や義理人情も廃れ、利益や効率が優先される世相に人心は荒廃している。

このような世相に、心の支えとなる宗教は、正に「宗教は敗者のアヘンである」とカール・マルクスが言うように、私達を合理的な考え方から遠ざけ、夢幻の世界へ誘い込み非人間的な階級支配の道具として機能しているだけで、神仏の愛を心の糧として飽くなき自由を求める雄たけびや鼓動が聞こえてこない。

ところで、宗教とはそもそも、時の権力者が臣民を隷属させるための絶対的な権威をいうのである。英国国教会しかり、日本の皇室も天照大神から授かった三種の神器に由来し、伊勢神宮に参拝して国の政(まつりごと)を執り行っている。宗教は国を始める基であって、宗教なくして国はありえないのである。そして、さらに厄介なのは、心の糧でもあると同時に為政者の権威でもあるのである。

ここに、事例として、真実の愛を例にとれば、真実の愛とは離婚3割を超える今日の日本の現実を言うのであって、よく立派な聖職者が力説するアガペや慈悲と言った至上の愛を言うのではない。そのような崇高な愛は、神仏から与えられることはあっても、人間である限り自らが持ち得る愛ではない。私達の愛は、苦しみであり、悲しみであり、喜びであり、楽しみであり、嫉妬であり、妬みであり、善意であり、悪意であり、真意であり、不義である。なぜなら、もし仮に私達の本質が神仏に由来するにしても、この肉体を持ち地上に生きる限り、私達は永久に神仏とは無縁の愛に生きなくてはならない定めにあるからである。そんな権威に威を借りて純な信者の心を弄び隷属させる一部の聖職者には怒りを覚える。まさに、宗教が敗者(隷属者)のアヘンと言われる所以である。

そんな訳で、知恵や知識や経験が増せば増すほど、私達は多くの頸木につながれ不自由な想いを強いられるのである。しかし、諦めてはいけない。私達の本質は個々に誰の力も借りることなく神仏と一体なのである。さらに、時の善悪や真偽をも超える自由を有しているのである。私達が心や想いに有する真善美に比べれば、現世のものは石ころのごとく取るに足りないものなのである。

生きるとは、そんな私達の本質に目覚め、日々の想いを大切にして、その想いを親しき友や家族や仲間たちと共に分かち合い味わうことではないだろうか。飽くなき自由を求めて、私達は何処までも、自らの足で立ち進んでいく勇気を持たなくてはならないと思うのである。

三種の神器

jpjapon について

3匹の犬と優しいけど時々意地悪な元気なおばさんと桃やブドウに囲まれた田舎で暮らしています。音楽と写真が大好きなパソコンフリークです。日々の想いを、聖書の御言葉や御仏の教えを交えて仲間と語り合うのが大好きです。平凡な日常から垣間見る世間の出来事を、自分流に書き綴っていきたいと思います。
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