「名人伝」は、中島敦の短編小説である。
むかし趙の都の邯鄲(かんたん)に、紀昌(きしょう)という若者が住んでいた。天下随一の弓の名人になろうと志し、当今随一と言われる弓の名手、飛衛(ひえい)に弟子入りし研鑽を積み、ついに飛衛を追い抜くほどの弓の達人となる。しかし、紀昌の想いは留まることなく、師匠飛衛をして己が技は児戯に等しいと言わしめた仙人の甘蠅(かんよう)に秘伝の技を乞い、そして、ついに、彼は「弓矢を持たずして射る=不射の射」を体得するのである。
「不射の射」を修め弓を極めた紀昌は、弓を持たずして何でも想いの通りに、獲物を射ることができる。夏の夜空に、その矢は閃光となって「ひゅー、ひゅー」と幾重にも音を立て天空にも届くのを観ることができたと言う。しかし、そんな紀昌の心に転機が訪れる。次第に紀昌の想いは弓への執着から離れていくのである。そして、ついには弓そのものさえ忘れ去ってしまう境地にいたると言う物語である。
この物語は、私達の想いについて語っている。最初は私達は極めて現実的なものごとに執着する。しかし、それでは飽き足らずに、心はものを離れ次第に実体のないものに遷っていく。そして、最後には夢幻のように、やっと手にしたその想いさえ、あたかも何もなかったように闇夜に消え失せていくのである。想いは果てしなく尽きないのに、その想いさえも天空に消え去っていくのである。
それは、何を意味するのだろう。生きる意味を問いたい。私達は何を極めようとしているのだろう。何を知り得るのだろう。満天の夜空の星に、愛を超えるその想いの謎を私は知りたいのである。