私達は日頃、多くの規則や法令、道徳や規範、仕来りや常識に縛られて生活している。想いは果てしなく欲望や煩悩は尽きないのに、その前に立ちはだかる規制や障害は数限りない。仮に何かをしようとすると、どんなことでも何らかの形で既得権が保護されていて、無理やり割り込もうとすると忽ち抵抗勢力に袋叩きに合うのが落ちである。それは、業界と行政(官僚組織)が互いに補完し合う親密な関係にあるからである。
ご案内のとおり、そもそも行政は私たちの生活全般に深く関与し、行政指導や勧告、命令や法令などによって、私達の生活を管理し支配している。ある意味不当な介入・要らぬお節介でもあるが、その一方で、社会の安全と安心が確保されていることも無視できない事実である。
そんな日常にあって、先の小泉政権において、世界規模で押し寄せるグローバル化の波に、「聖域なき構造改革」を旗印に小さな政府(行政経費削減)を標榜し大幅な規制緩和政策を執ったことは周知の事実である。その結果、1,800万人に上る非正規雇用や社会格差の拡大が生じ、その後の政権においても、デフレの進行に歯止めが掛らないどころか、今日のアベニミクスに至っては、国民資産がそっくり喪失する1,000兆円を超える巨額な負債を抱えるに至っている。まさに、私たちの日常は、今生まれてくる赤子の労役をも当てにして、冷房の部屋に鎮座する身の上なのである。戦後68年が経過し、目覚ましい復興も一時期の夢と化し、今の日本はグローバル化の波に押し流され、経済戦争に敗北した敗戦国なのである。既に国民資産の多くは海外に流失し、それを誰もが実感し得ないことも奇妙だが、国の超エリート官僚たちが無策に放任していることも、何か不気味なものを感じる。もはや、エリート官僚は国の再建を諦め、デフォルト後の己の既得権益を担保する手だてをしているのかもしれない。
そんな国情はともかく、そもそも、規制緩和とか規制撤廃とかいうと、既得権を消滅させるかのような響きがあって聞こえはいいが、ご案内の通り、リーマンショックはアメリカの大規模な金融緩和策により、多くの社会的リスクが証券化され国を超えて取引されたことによるものである。その後は回復基調にあるとは言え、未だにその後遺症が残る中、債券市場はそれなりに拡大し、今や国を超える金融投資は実体経済を超え、その危険性は払拭できない状況にある。規制緩和が引き起こす大罪と言える。
このような状況下に、日本は今日TPPに加盟したことで、関税の撤廃は言うに及ばず、医療や食品や製品に関する規制基準においても緩和や撤廃が進むことが予想される。加盟国には、それぞれの国内事情があり、規制を同一にすること自体無理だと思われるが、それによって大きく加盟国の生活レベルが上がるとは思われない。むしろ、規制撤廃による粗悪品の流布や環境破壊が懸念され、それ以上に、第二のギリシャの現出を観るような気がするのである。
それに、 既得権とは本来、何を指す言葉なのであろうか。およそ、この世に既得権がないものなどない。生まれや門閥、それに身体能力なども広く解せば既得権と言えないこともない。それに、人間は生きる限りその階層や階級に応じて労苦は付き纏うものだから、既得権をなくすことを考えるより、規制する方が理に叶っている。自由にやりたい放題させておいて取り締まるより、最初から規制した方が秩序は保たれるからである。特に、食品や工業品の規格などは、細部に亘って規制した方が安全性が確保される。
そう考えると、グローバルな世界だからこそ、地域性を確保し特色を出していった方がいいように思える。私達の生活には私達独自の伝統や文化があり、近年になって誕生した国の基準で生活が制御されては堪らない。敵は外国にあるのだから、外国に従わせる「ものつくり」をしていけばいいのである。私達日本民族は世界の如何なる民族より、あらゆる点で勝っている。その意味で、規制緩和は安い粗悪品を使う羽目になっても、私達の文化水準を引き上げるどころか低俗なものにしてしまう危険性を孕んでいる。ものに限らず、どんな仕事も職人気質がなくてはつまらない。それこそ、仕事=金である。生活=金になってしまう。そんな国づくりに精を出しても意味がない。生活とは「想い」に生きることであり、「情」に生きることだからである。
私は「武士は食わねど高楊枝」そんな気骨ある民族でいたいと想うのである。