世相を生きる

IMG_0560_20140104_124129「清く正しく美しく」とは宝塚歌劇団のモットーであるが、そんな一昔前の女性を今日の日本の芸能界に見つけることは難しい。離婚や不倫は当たり前で、それをエネルギーに愛を語り愛を演じている訳だから、今までとは違った視点で彼女らの演技を観なくてはいけない。つまり、愛の形はどうであれ、自分を生き抜くことが今風の「清く正しく美しく」生きることだからである。

そこで、そんな世相をもう少し深く探ってみると、身体と心は別物と言うか、平たく言えばセックス=愛と言う関係では男女の仲はもはや語れない時代になりつつある。つまり、セックスは一種のスポーツや生理現象であって、人によっては、自分らしく生きるには今日の婚姻制度は足枷であり息苦しくて精神的な負担が大きすぎるようで、離婚しても仲良くお付き合いしている夫婦も結構いるように聞き及ぶ。

そんな世相に、日本人の生来の国民性を想い起すに、日本人は生真面目で礼儀正しく名を尊び責任感が強く忍耐強い国民性を有する民族であるように思う。しかし、最近はそのような国民性も大きく様変わりして、額に汗して実直に稼ぐ人は非正規な環境に仕方なく働く人達で、いち早く情報を手に入れ要領よくお金を稼ぐ人達や既得権に胡坐をかく人達が世間では幅を利かせているように思う。テレビに出演する著名な学者やコメンテーターを観ても、尤もらしいコメンには感心するが、とても自らが当事者としてその関係性に生きる勤勉な人達とは思えない。所詮コメントテーターであって、そのコメントも13億を超えるAKBの被災復興支援に比べれば、空理空論であって現実的な解とは程遠く、覚めた目で見れば馬鹿に見える。

さらに、最近巷でよく言われるChangeとかChallengeとか言う言葉にも、何か要領よく情報を入手して活用し時代の波に乗ることに力点が置かれているようで、正に「先んずれば人を制する」がごときの処世術を言っているような気がする。

しかし、そんなものは所詮処世術であって、そこから得られるものは多かが知れている。ただ食って通るだけの話であってあまり意味がない。まあ、そんな風にしなくては生きられないのであろうが、想いを共に生きることからすれば、つまらぬ時代になったものである。

さらに、多くの悩みごと相談なども、自分が変われば周りが変わるごときの処世術を説くだけの話であって、人間が生きる本質には触れていない。人間とはもっと根深いものであって、野獣の身体に野獣の想いと聖なる想いが同居する複雑怪奇の化け物であって、とても簡単にその本質に迫ることなどできないものなのである。

最も信じられないものは自分であって、己の想いである。深遠なる教えも思想も現実に野獣の身に生きる私達にとっては無縁のものとしか思えない。なぜなら、身体の内に外に多くの生き物と接しその関係性に生きる私達の想いが一体何処から来るのかわからないからである。その野獣の叫びや聖なる想いは一体何を意味するのだろうか。私はそれを問いたい。

そんな訳で、野獣に生きるも人生であり、聖なる想いに生きるも人生である。しかし、想いは果てしなく尽きることはない。その想いも深く考えれば自分ではどうにもならぬものが多い。他者との比較や理屈ではとても割り切れるものではないのである。しかし、そんな私達の人生を呪い苦しめる想いは、どうあがいても自分では払拭できないのが現実である。生れついた境遇や過去の従縛から、己の力で逃れられる人は先ずいないと私は想う。

そんな想いから解き放たれたいと私達は多くのことに想いを託して日々にチャレンジしているのが現実なのである。きっと、それは今風の「清く正しく美しく」生きることなのである。しかし、それは難しい。なぜなら、私達は今私達をこの世に在らしめている大自然の力を心から信じていないからである。

ゆえに、信じて疑わずして、己の想いに問うことである。祈りには霊力がある。その計り知れぬ力には世界を一変する力があると想う。己の想いを大自然の営みにつなぎ、一途にその御業を待ち望むことである。

想いは果てしなく尽きることはない。想いこそ己の存在を証しするものである。ゆえに、時に大自然の営みに触れ、その霊力をいただくことが、天空に想いを馳せるかぐや姫のように「清く儚くも美しく」己を生きることにつながることになるのではないかと想う次第である。

jpjapon について

3匹の犬と優しいけど時々意地悪な元気なおばさんと桃やブドウに囲まれた田舎で暮らしています。音楽と写真が大好きなパソコンフリークです。日々の想いを、聖書の御言葉や御仏の教えを交えて仲間と語り合うのが大好きです。平凡な日常から垣間見る世間の出来事を、自分流に書き綴っていきたいと思います。
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