私達は、己の出生に一切関与できないことから、生まれながらにして主体性を欠く存在である。故に、その後の日々日常に目の前に展開される如何なる事象に対しても、私達は主体的に関わることができないのではないだろうか。
つまり、事実や事象は一つだが、真実(信実?)は関わり合う人の数だけ存在する訳で、それは、巨象の鼻や足や尻尾を目隠して皆なで触っている様なもので、事実や事象について自分なりに信じるところ(真実ではなく信実?)は言えても、すべてを語ることはできないように思う。ゆえに、真実や真相の究明などは程々にすべきで、極めれば過ちを犯すことになるのではないだろうか。
今日世界の3分の2の国が死刑制を廃止しているが、この意味からして、全く無抵抗な人間を国家権力をして殺害することは、罪人とは言え、私達の存在を本質的に否定し尊厳を犯すことになるような気がしてならないのである。
また、どう足掻いてみても、如何なる関係性においても主体性を欠き物事の本質を見極められない私達が、完璧を求めて案文を書くこと自体が、正に無明の為せる業であり、何事も極めずして「緩みや弛みやユトリ」を持って物事に臨み接することが肝要ではないかと思うのであるが、そうすれば、肩の力が自然に抜け落ち気が楽になり、自ずと自分の立ち位置が分るのでないかと思うのである。
そんな訳で、時に話は宮沢経産大臣が絡むと言われる広島の「SMバー」に飛ぶが、まあ宮沢大臣が常連かどうかは別として、現に「SMバー」が存在する訳だから、それなりの需要がある訳で、人間には誰れでも無視できない闇の部分があることが分る。
まあ、大義名分や正しいことを言うは容易いが行うことは難しい。仮に、善を語れば偽善を語ることになる。正に、正誤、真偽、善悪は-体であって、時と場合によっては真逆なこともあり得る訳で、理想や法を説く者ほど偽善者と言えるような気もする。
女は強かに己を偽り着飾り、男はその色香に酔いしれる。ドロドロした男と女の愛憎劇にこそ、偽らざるの男と女の関係や姿があリ、多くの涙と笑いの果てに手にする想いこそ、己の存在を証しする唯一無二のものと言えるのではないかと思う。
想いは果しなく尽きることがない。今日も一日、そんな想いに遊んでみようと思う次第である。