「なぜ生きるのか」と問われれば、生きるしかないからである。勿論自殺することもできるが、それには明確な理由があるようでない。言い換えれば、「生きようとする」から自殺するのであって、自殺は「生きる」ことのアンチテーゼである。
時に、天皇家や皇族は言うに及ばず、お寺や神社、それに歌舞伎や狂言、華道や茶道や日本舞踊の家元、病院や老舗や企業の跡継ぎなどに生まれると、それなりに屋台骨を引き継いでいく訳だから、自由があるようで自由がない。要するに、なぜ家業を引き継ぐのかと問われれば、食うためばかりでもなく応えようがない訳で、問われた方も「なぜだろう」と思っている訳で「そうするしかないから」としか応えようがないのである。
つまり、誰もが一様に主体性を持って「生きようとしている」のであるが、主体的に生きられない、さらに言えば多くの関係性の中に「生かされている」訳で、結果として「生きている」だけの話なのである。
そんな想いに、病気や災難で二進も三進もいかなくなって、八方塞でどうにもならなくなった時、理研の笹井さんではないが自殺するのも一つの方策であるが、神仏にすべてを委ねるのも一つの方便であって、それは救いでもあると同時に、「まな板の鯉、どうにでもしやがれ」の類の話であって、如何にもならないことは開き直って「過ぎ越す」しかないように思う。
ところで、さらに話を進めて、宗教について言えば、すべてを神仏に委ね「諦めと慰め」を手にし、新たな希望に生きることに異論はないが、だからと言って、日々日常のやり取りや出来事を「神の御心やご計画」によると言った言葉で片づけてしまったら、本当の意味での「信仰に立つ」ことにはならないのではないだろうか。
この意味において、宗教は、マルクスが言うように「貧乏人のアヘン」であって、毒にも薬にもなる訳で、使い方によっては、人間の尊厳を冒涜するもので、神仏の威を借り、民衆の依存的な心理を手玉にとって民衆を隷属化するものになってしまい、そんな邪教の国や宗教組織や輩も存在することは否めない事実である。
言い換えれば、世俗の苦しみは神仏が織り成す「諦めと慰め」によって癒されようが、それとは別の次元で、苦しくも主体性を持って「生きる」こと「自分を生きよう、生き抜こうとする想いや意欲や意志」は、どのような道に進もうが失ってはならないように思うのである。
そんな訳で、少々論点がずれてしまったが、「なぜ生きるのか」と問われれば、問われた本人も「なぜ生きるのか」と思っている訳で、漠然とした不安感の中に己のルーツを探し求め、日々日常に己の存在を証しているだけの話であって、道は限りなく続いていて、死後においても続いているような気もするのである。
そんな想いに、今日も新たな出会いを信じて、時を得て自分なりに花を咲かせていこうと思う次第である。