00270601-045635.jpg恐らく今の時代、「愛」を頭から否定したら、かなりの変わり者と言われてしまうのではないだろうか。

なぜなら、愛は人を思いやり、人に寄り添い、人に癒しと安らぎを与えるものとして、また、多くの文化芸術のテーマとしても、人と人の絆を深め、信頼の輪を広げるものとして取り上げられ、人の心の拠り処となっているからである。

聖書の「コリントの信徒への手紙の第13章4節から7節」 にも、愛について、

「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」

と書かれているが、愛は、未熟な自我欲や野獣の営みや差別や偏見から私達を解き放ち、私達を「争いや分離や支配や独占」から「理解や融和や分かち合い」に導くものと考えられている。

さらに、愛は、母親の無償の愛や友愛や博愛、仏の慈悲にも通じるものとして、病気や飢餓や貧困に苦しむ不幸な人々を救う慈善事業や人道支援活動の「基本理念」にもなっている。

しかし、その一方、よくよく考えてみると「人は愛するが故に…」知足安分を忘れ、無知蒙昧妄執に囚われ、憂いや悲しみに藻掻き苦しんでいる訳で、「愛を手離せば…」少なくとも、私達は、永遠なる想いへの執着もほどほどに、有限なる想いの中に、己を解き放つことができるような気もする。

しかし、現実に私達は中々そんな「覚りの境地」に達することが出来ない訳で、幾つになっても「愛という幻想や幻影」に希望や期待や憧れを捨て切れぬまま、多くのものに惑わされ囚われ、苦しみの中に一生を終えてしまうような気がする。

ところで、キリスト教はよく「愛の宗教」と言われるが、実は愛(自己愛?)によって生ずる自分ではどうすることもできない欲望や「妬みや憎悪と言った不浄な想い」を、創造主である神に委ね「神の愛」に縋って救いを得る「救いの宗教(他力本願)」である。

一方、仏教は、自ら精進し真理を見出し涅槃に至る「覚りの宗教(自力本願)」であって、「邪悪な想いを引き起こす迷いから離れて涅槃に至る」という「極めて高度な精神力を要する知的な宗教」である。

言い換えれば、迷いを生じる欲望や愛には消極的でストイックな宗教であり、あえて言えば、現世における心の有り様(平安)を説くもので、我慢すれば痩せられる(何かいいことが得られる)といった類の幼稚な法を説くものではない。

しかし、極論すれば、この世は嘘偽りや矛盾に、不正や偽善に満ち、不条理極まりない訳で、自らもその一員であると言う自己矛盾や漠然とした不安の中に、生きる意味や望みや希望を失い「自殺」する人もいる訳で、ノーベル文学賞を受賞した作家の川端康成を始め、芥川龍之介や太宰治や三島由紀夫、身近な人では加藤和彦や藤圭子やポール牧や田宮二郎や沖雅也など数え上げたら切りがない。

ところで、警視庁のまとめによると、昨年の自殺者数は25,374人と5年連続して減少してはいるものの、統計を取り始めた78年から14年までの36年間、自殺者は2万人を下回ることがなく、尊い命を絶っても拭い切れない「喪失感や絶望感」は計り知れないものがあるように思う。

しかし、子供や孫の誕生に際して思うことは、私達は誰もが、多くの人々の喜びと祝福の中に生まれきて育てられ「今日ある」訳で、少なくとも「父母の無償の愛や想い」に感謝し、その恩寵に自分なりに何らかの形で応えていかねばならない訳で、そんな想いから、世間の善意を一方的に断ち切らねばならぬ「喪失感や絶望感」を抱かせる社会であってはならないように思う。

然れども、いかなる営みも究極的な真理には程遠く、日々日常は相も変わらず「物憂い」ことは確かで、改めて真面にその意味を問えば、一刻たりとも生きてはいられない想いに駆られることも事実である。

そんな想いに、ひたすら「覚り」を求めて欲を捨て無我に生きてもつまらなく思え、かと言って、すべてを神に委ね、神の救いに生きてみても、せっかく神が私達に与えてくれた「知恵や知性」を使わずして一生を終えしまっても、これまた、反って神の意志に背くような気もするのである。

そんな訳で、結局、私達は何事も過ちの中に「最善を尽くして天命を待つ」しかないように思える訳で、今日も新たな出会いを信じて自分なりに頑張ろうと思う次第である。

jpjapon について

3匹の犬と優しいけど時々意地悪な元気なおばさんと桃やブドウに囲まれた田舎で暮らしています。音楽と写真が大好きなパソコンフリークです。日々の想いを、聖書の御言葉や御仏の教えを交えて仲間と語り合うのが大好きです。平凡な日常から垣間見る世間の出来事を、自分流に書き綴っていきたいと思います。
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