統一

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ギリシャの経済危機が再燃しているが、もともと国民性や経済基盤や経済規模が全く違う国同士が、統一通貨を使うことに無理があり、何事も統合統一すればいいものではない。

通貨について言えば、本来その地域の経済力を表すものとして貨幣が存在するわけで、貨幣とは少なくとも伝統や文化、歴史や風習、生活様式等を同じくする経済主体から生み出される価値を表すものだから、国や民族や地域特性を超えた「通貨統一」は愚策としか思えない。

極論を言えば、同じ日本においても、東京など首都圏と私共が暮らす甲府とでは、経済力に差があって大きく違うわけだから、厳密に言えば、同じ1円でも価値が違い、この違いは物価に表れている。

その意味から、グローバル化は下手をすると、富の偏在と格差を助長し、争いや紛争の火種になりかねない。

しかし、そんな中でも、ソニーやトヨタ、キャノンやアップルなどのグローバルカンパニーは、マーケティングを活用し、その地域の特性を活かした企業経営をしており、世界企業の方がいち早く的を得た世界国家への礎を築いているように思える。

ところで、そもそも、物事は何から何まで統一統合すればいいものではなく、基本的に何事もそれぞれの独自性や独立性を維持しながら、同じ目標に向かって進んで行くべきものである。

このことは、何も経済に限らず、私たちの日常生活についても言えることで、仮に夫婦の間柄でも、男と女の特性を保ち活かしながら、自立してパートナーとして生活していくことに、新たな価値と喜びを見いだせる訳で、何から何まで共有し依存し合っていては、息が詰まり墓場になってしまう。

つまり、夫婦であっても、ほどよい距離間は必要であり、プライバシやプライベートには踏み込まない知恵と知性が必要である。依存と共存とは違うのである。

このことは、仕事や職場でも言えることで、組織や会社の目標と自分の目標が全く同じであるはずがなく、付言すれば、社会生活は個人の差異から生じるストレスに苦しみながら、自分の目標に向かって、自己実現していくものである。

まあ、平たく言えば、私たちは誰もが一人であって孤独であって、孤独であるがゆえに、共同生活をしているわけで、人は一人では生きられない。しかし、ほどよい距離感は夫婦や親子、友達や知り合い、職場の上司や同僚など、自ずから弁えなくてはならない事は周知の事実である。

まあ、それをあえて言えば、「信用とか信頼」という言葉で表しているのかもしれないが、社会生活の多くは、世間の決まり事や社会制度によって営まれているも事実であって、それでもそんな枠組みから外れた「そんな個人的な信用とか信頼といった関係性」に、私たちはほっとする訳で、そんな関係性に生きることが、私的には救われる思いがする訳である。

そんな訳で、今日も社会のお荷物にならぬよう、新たな出会いを信じて、自分なりの信頼の輪に支えられ、頑張ろうと思う次第である。

jpjapon について

3匹の犬と優しいけど時々意地悪な元気なおばさんと桃やブドウに囲まれた田舎で暮らしています。音楽と写真が大好きなパソコンフリークです。日々の想いを、聖書の御言葉や御仏の教えを交えて仲間と語り合うのが大好きです。平凡な日常から垣間見る世間の出来事を、自分流に書き綴っていきたいと思います。
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