明治維新から今日に至る日本の歴史を紐解くと、耳を疑うような史実も飛び出し、仮にもしこれが本当なら、戦後の占領政策の是非どころの話ではない。皇室や国体のあり方にも疑問を呈する訳で、不信と失望の中に、極めて不快な想いが沸き起こる。
まあ、トランプ旋風が吹き荒れ、中韓の崩壊や北朝鮮の動向、シリアにおける第三次世界大戦などが懸念される中、今後の日本のあり方が問われる訳だが、国体を預かる支配層が、相変わらず常軌を逸した罪深い権力闘争の延長線上にあるなら、その権威も地に堕ち、信頼や尊敬に値するものへの裏切りに、深い失望と虚しさを禁じ得ない。と同時に、私的には、下世話な物欲の方がまだマシに思え、私たち団塊の世代が後世に何を伝えるべきか考えてしまう。
そんな何処かさっぱりしない気持ちで迎えた今年の正月も、あっという間に松の内も終わり、いよいよトランプ政権が稼働する。
まあ、思想や信条、主義や主張の背後にうごめく人間の醜さや罪深さが際立つ今日の世相に、いろいろ考えると憂鬱になるが、そこはそことして、気を取り直して、世俗の権威に拘らず、内なる力を信じて、身近な人と嘘偽りなき交わりをしていこうと思うが、ここまですべての権威が失墜すると、疑心暗鬼になってしまい、誠に持ってよろしくない。
マスコミやマスメディアなどは真実を報道すれば首になり、食品や医薬品の安全性なども利潤の追求から何処か不信感を拭いされない訳で、制度や法律で幾ら規制しても、人の信用や信頼やお互いの信義を欠く社会は、もう手遅れのような気がする。
そんな訳で、オリンピック1つとってみても、純粋にスポーツを楽しむと言うより、経済効果や利潤の追求が最優先されているわけで、見方を変えれば、生涯をアスリートにかける選手たちは、古代ローマの戦闘士や奴隷のようなもので、IOCやFIFAといったヨーロッパ貴族の組織の「単なるおもちゃ」にすぎない。
そんなことから、文化芸術やスポーツも、商業化され市場化されなければ生き残れない社会は異常であり、私たちの心を解き放つものではなくなっているところに問題があるように思う。
しかし、今年もニューイヤーコンサートで拝見した限り、歴代のパトロンに支配された「シトラウスやオペラやバレエ」であっても、ロマンティックな調べや魂の叫びとも取れるオペラやバレエは健在であり、そんな男と女の想いを超えた世界に、改めて、私たちの本質が存在するような気がした訳で、今年も愛と正義と勇気を信じて、新らたな出会いの中に己を見い出していこうと思う次第である。