過去・現在・未来を繋ぐ長い時間軸の中で普遍性を求めない限り、相対的な関係性の中に己の存在を見出さなければならない。そんな今日のモダニズムにおいて、伝統や文化は単なるエンターテイメントや金儲けの道具になってしまい本来の意味を見失っているような気がする。
文化とは長い時間軸の中で培われた生活そのものであって、私たちのすべてを包含するものである。朝目覚めて住まう街の空気を吸い、身近な出会いや語らいや出来事の中に、自分らしい生活を支える全てのものが包含されている訳で、それぞれの生活に共通項を見出せるとしたら、それは一体何なのだろうか。
時代はポストモダニズムに突入し、普遍性を手放し「イマ・オレ・カネ」に生きる今日的なセルフィシュな生き方に、自らの「偽善や自己矛盾」を正当化し、誰もが己のアィデンティを主張し合えば、今日のイギリス議会のようになってしまう訳で、古くは利権がらみの族議員、新しくはネオコンや金融エリートやLGBTなどの価値観や世界観は、互いに自己主張が強すぎて、妥協や合意形成に至ることはまず持って難しいように思う。
そんな想いに、この春は平成最後のお花見や新元号の発表から、万葉の悠久の世界に遊ぶ日本の文化の素晴らしさに改めて気づき、悠久の時間軸に生きる意味を痛感した次第である。
桜も散れば新緑の季節である。清々しい五月の風に、今年は成り行きに任せて吹かれてみようと思う次第である。