日本は大東亜戦争で、多くの優秀な若者を失ったことやアメリカによる戦後の占領自虐民主教育によって、誉れ高き日本の精神文化が崩れ去ろうとしていることは、私のような昼行灯でも容易に想像がつく。
前回のブログ記事では、東電の対応をクソミソに言ったが、実際に工事に来てくれる担当者は、以前の電線移設の時も、親切で真面目な人だった。まあ、現場と窓口との違いは、やはり、組織として、現場主義に徹していないことに原因があると思う。
何事も現場主義、理想は理想、現実は現実である。その理想を、リストカットならぬ些細な効率や経費削減に求めるのか、1連の現場の流れや費用対効果で捉えるのかでは、大きな違いがある。
まあ、今回の有観客者でのオリンピック開催も、緊急事態宣言を解除してまで、実施するものか疑問に思う。本当に、市民都民国民のためのオリンピック開催かどうか、初心に戻って国全体で考えてみてもいい。
いちど決めたら、何が何でも突き進むインパール作戦のような精神論では、日本の将来は危ぶまれる。もっと世界に目を向けて、日本の立ち位置を国民全体が知り得る環境整えて、貴重な税金を庶民のために振り向ける政治体制を作る必要があると思う。
そんなことから、今は亡き忌野清志郎の破廉恥なパフォーマンスは懐かしい。放送禁止用語がたくさん出てくるが、常に大勢?体制?寄りの女性をもじった表現など、実に的を得ている。
女性は愛の実存であるからして仕方ないのだが、そんな愛を信じることも、現実の生業に忘れ去られていく社会に、改めて愛の本質を考えてしまう。
外は雨、まだ真っ暗で、時計を見ると夜中の2時半である。大きなモクレンの葉っぱに雨が当たる音が優しく聞こえる。
すべてに感謝したいと思う。