人間の力では如何ともし難い「欲、怒り、妬み」の3毒の煩悩に焼かれ穢れた私達の世界(穢土)には諦めはあるものの、思い通りにならないことばかり続くと、梅雨空の曇天の空のように憂鬱になる。
そんな最近の自分をなにげに振り返えると、コロナ自粛から、妙に達観的というか厭世的になってしまい、以前のように新作のガジェットやカメラやスマホにも関心がなくなった。
新たな趣味のDIYの工具も、以前なら無理しても最上位モデルを買ったが、今はエントリーモデルで満足できる。
まあ、物事への拘りや情熱や意欲が薄れたのが、いいのか悪いのか分からないが、進歩や発展性の原動力が幾分失われたことは確かである。
先日もだいぶ前に頼まれた案件をやっとの思いで処理して連絡してあげたが、梨の礫に、世間の壁はこんなものかと一抹の寂しさを感じた。と同時に「人を見る目のなさ」に苦笑した。まあ、時が経てば人は変わる。多分その時は都合が良かったのだろう。
そんな訳で、「人生暇つぶし」パスカル先生や談志師匠の言う通りである。そう思えば気楽である。人生に意味はない。だから、裏を返せば、どうにでも生きられる。所詮両方は立てられないから、その時々に、カエサルやイエス様やお釈迦様を拝借すれば良いのではないだろうか。
ご都合主義は、政治や行政ばかりでなく、教育や宗教の分野でもまかり通っている。仏性を目に見えぬ形而上学的な問題として無しとし、如来の本願に縋り絶対の幸福をこの世において体現できると言う他力本願も、何か上手い話し過ぎて腑に堕ちない。
まあ、世間全般において、壱発勝負といった話は怪しいものが多く、やはり紆余曲折、努力と精進、様々な障害があってこそ、手に入るものでないと信用できない。
まあ、私たちが時に、空虚感を感じ、常に真理や真実になるものを求めるのは、仏教的に言えば、やはり仏性の存在を認めざるを得ない気がするが、だからといって修行や精進によって成仏できると言うのも、いささか行き過ぎた話だと思う。
いずれにせよ、この種の見えぬ話は無記としてある無しを論ぜずして、己の想いを信じて生きるしかない。
そんな訳で、今日も曇天の梅雨空に、裏庭に植えたオクラの苗に挨拶して、1日を始めようと思う。
すべてに感謝したい。