言葉

言葉は難しい。隠れた意味があるからで、仮に「元気なお子さんねぇ~」とか言われたら、その裏に、うるさいと言う意味が隠れているかも知れない。

この種の言葉として、直ぐに頭に浮かぶのは「京ことば」であるが、直接気持ちを表現せず、奥ゆかしいと言えば聞こえはいいが、直接大胆にジョークや皮肉を交えて気持ちを伝えてくる大阪人には、京都人は腹黒いというイメージがあるようである。

事例を上げれば、「よろしいなぁ 」は、 どうでもよろしい構わない。「おおきに」は、誘ってくれてありがとう、でも結構です。(断り) 「かんにんして」は、 いい加減にしてや。「いけずな人やなぁ」は、意地悪な人やなぁ。「よういわんわぁ」は、よく言いますね、返す言葉もない。(呆れる) 「どないしはったん」は、どうかしたんですか? 気は確かですか。「ぶぶ漬けおあがりますか?」とは、そろそろお帰り下さい。

と言った具合に、否定的な意味が含まれていると言うから、額面通りに受け取ったらとんでもないことになる。まあ、お互いに気持ちを察し合うと言えばそれまでだが、どちらかと言うと、長い間権力の中枢にあった京都と言う土地柄からか、邪推や猜疑心の強い貴族文化の屈折した表現が垣間見える。

まあ、 京都人からすれば京都人以外はみんな田舎者だから、京ことばが分からんようでは…と言った雰囲気も漂うが、田舎者からすると、面倒くさい、よう言わんやである。

しかし、今日のようなグローバルな時代になると、ことばの隠れた意味を考えながらおつきあいするのもしんどく、どちらかと言えば、如何なる言語も単一思考的にグローバルスタンダード的な表現になりつつあり、変化と多様性の中、いつまで、この種の表現が許容されるものか興味深い。

ところで、言葉もだが、歳をかさねると言葉以上に、その人の身なりや服装、所作、立ち振る舞い、顔つきや雰囲気がものを言う訳で、言葉よりその人の日頃の行いの方が、その人なりを知る要素になる気がする。

まあ、 言葉ではなんとでも言えるが、やはり行動が伴わないと、いまいち信用信頼に欠ける訳で、特に 政治家は言うに及ばず、教会の宣教師や伝道師、神社の神主やお寺の住職や学校の教師や学者などの世俗化した行いには、社会の模範リーダーたる職責にある人だからこそ、己に厳しくあってほしいと思う。

まあ、自尊自立にあれば、如何にことばが軽くなったとは言え、滅多に謝ることはないと思うが、最近は国家間や国の権威を語る大臣が、意図も簡単に、発言を撤廃したり謝罪している。それも同じ案件で何度も繰り返し謝罪しているが、安売りのバーゲンセールみたいで、実にお軽い感じがする。

私的には一度謝ればそれでおしまい。「武士に二言はない」と言った竹を割った気風のいいところ見せてもらいたいと思うが、 世界的に見ても世界のリーダーはみんな小ぶり、小市民化しており、度胸が座った大物は皆無と言った感じがする。

そんな訳で、言葉を離れれば、誰もが湯呑みでお茶を飲み、箸で食事をする、そんな日頃の行為や行動が、その人の人となりであり、信用や信頼の尺度につながるものではないかと思う。誰もがほんの束の間を生きる存在、歳取れば腰が曲がり自分の脚で立つことも出来なくなる。

そんな現実に、言葉の意味を、仏典や聖書や巷の教えに求めても、額面で捉えるか、それともそれを紐解く人の言動から読み解くかでも違ってくる訳で、今日的な「言葉遊びの時代」に生きる難しさを痛感する。

しかれど、言うに言われぬ想いが存在することは確かで、心の琴線に触れる言葉を待ちわびていることも確かである。

そんな存在に自然は優しく、文化芸術の持つ意味は計り知れないものがある。まあ、フーテンの寅さんではないが、「それを言っちぁ おしめえよ」で、云わぬが花、ことばにしてはいけないのがのが、人生かも知れない。

そんな想いに、今ポーランドのワルシャワで開かれているショパンコンクールの激戦を勝ち抜く出演者の様子には、人間の果てしない想いの強さが画面越しからも見て取れ感動する。

誰もが空蝉の如く儚い存在、死ねばその想いも失われてしまう。すべてが無と化す現実に、想いの意味を改めて問いたい。

改めて、すべてに感謝する次第である。

jpjapon について

3匹の犬と優しいけど時々意地悪な元気なおばさんと桃やブドウに囲まれた田舎で暮らしています。音楽と写真が大好きなパソコンフリークです。日々の想いを、聖書の御言葉や御仏の教えを交えて仲間と語り合うのが大好きです。平凡な日常から垣間見る世間の出来事を、自分流に書き綴っていきたいと思います。
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