愛犬

愛犬のjanianを失って1年になるが、時折りjanianがそばにいるような気がする。

時に、昨夜は夢見枕に父親が現れ急に倒れ掛かり即座に抱き抱える夢を見た。夢見判断によると完全なる独立を意味するらしいが、父親が亡くなったのは42年も前だから、妙な話である。それにしても、何かの前触れかも知れないので、心して物事には対峙していこうと思う。

ところで、最近はコロナ自粛により自然と触れ合う機会が増え、癒しや安らぎは元より、何故か喜びや感謝をも感じるようになった。

確かに「人は人に傷つき、人に癒される」さらに人との良好な信頼関係が幸せを運んでくることは確かだが、揺らぎのない幸福感や充足感は、自然の営みからしか得られないことに気づいた。

簡単に言えば、これまで幸せを求めて、対人関係ばかりにフォーカスして、気を遣い神経をすり減らしてきた気もする訳で、移り気な心を頼りに良好な関係性を保つには、たとえ家族や親しき仲でも適当な距離感が必要になることは、ご案内の通りである。また言葉や仕草や表情から、相手の心を読み取るには最大限にコミュニケーション能力を駆使せざるを得ない訳で、人との交わりがボケ防止につながることは理にかなっている。

しかしながら、コロナ禍で人との交わりが減り、自然との触れ合いが増すにつれ、自然との対話を軽視するリスクに気づいた。

それは、同年輩の知人や先輩諸氏が病気で倒れ障害を負ったり、伴侶を亡くしたりするのを見るにつけ、さらにコロナ禍で、病院や介護施設で監禁状態になるのを見るにつけ、人を頼りするのは、かなり危険なことに思えてきたからである。

結局、人間はどこまでいっても1人、家庭や組織に自分の居場所を求めても、それは1時の拠り所にはなるが、揺るぎのない幸福感や充足感、喜びや感謝といったものは、あまり期待できず、長続きしないように思う。

そんな想いに、家の中に花を飾ったり、仏壇に生花を手向けたり、少し論点はズレるが鳥やワンチャンなどのペットを飼い、心の虚しさを解消してきたのではないかと思う訳で、文化芸術に触れることも、擬似的な自然回帰ではないかと思う。

そんなことから、連日温かい日差しを浴びながら、大地の声を聞き、鳥たちの声に耳を傾け、吹く風に季節の匂いを感じる日々日常に、世間のコロナ騒ぎはどこ吹く風、バカ馬鹿しく思えてくる訳で、隠居生活の醍醐味を感じる。

まあ、全く意味不明、根拠も理由もない確信が心の奥底から湧き上がり、それこそ大自然がもたらす生命力の力ではないかと思う。

弱肉強食、適者生存の世界にあって、こんな気持ちこそ、私たちが生まれながらにして持ち得る感覚や感性、感情ではないかと思う訳で、特にポストコロナには、大自然に親しむ必要性を痛感する。

いずれにせよ、立春は過ぎたとは言え、連日寒い日が続く。冷えは万病の元だから、冷えには万全を期し本格的な春の訪れを喜びと感謝の中に迎えたいと思う。

今あることに心から感謝したい。

それにしても、混迷大艱難時代を生き抜くには新たな出会いに活路を見出す努力は必要である。何事もバランス、頑張りたいと思う。

jpjapon について

3匹の犬と優しいけど時々意地悪な元気なおばさんと桃やブドウに囲まれた田舎で暮らしています。音楽と写真が大好きなパソコンフリークです。日々の想いを、聖書の御言葉や御仏の教えを交えて仲間と語り合うのが大好きです。平凡な日常から垣間見る世間の出来事を、自分流に書き綴っていきたいと思います。
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