何事も旬が大事、幾ら保冷や真空などの保存技術が進んでも、やはり旬のものを旬に食するに勝るものはない。第一美味しいし栄養になる。
時に「色気、食い気」は睡眠欲と並び称して人間の3大欲と呼ばれるが、ふとした所作仕草に「瞬彩 」なる感覚を覚えることが最近は本当に少なくなった。
年齢ではない。ひと昔前は、初老のご婦人でも、その人なりに若かりし時の色気を感じさせるものがあったが、最近は「何処を切っても金太郎飴」と言った感じの色気ばかりで、実につまらない。
特に若い女性のメイクや服装は洗練されていて綺麗だが、みんな似通っていて、その人なりのセンスや個性がない。言い換えれば、旬の美しさ「旬彩」に欠けるのである。
時に聖書にも「すべてのわざには時がある」と記されている。確かにその通り、時を逸すれば取り戻すことは出来ないし、取り戻したところで意味がない。
そんな想いに、日頃の生活を見回すと正に不必要なものばかり、まあよくこれだけいろんなものをかき集め溜め込んだものかと感心する。
そんな中、家相風水的に、物事を見極めると、身体の不調は精神的なものに起因していることが多いようで、生霊や死霊と言った言葉で人間の想いや想念や思念の有り様を捉えているところが面白い。
まあ、平たく言えば、スポーツなどの応援であり、丑三つ時の藁人形と言うことになるが、そんな極端なことでなくても、「目は口ほどに物を言う」訳で、想いや想念や思念が身体に及ぼす影響は、計り知れないものがある。
まあ、そんな想いもポジティブなものならいいが、ネガティブなものは本当にいただけない訳で、そんなところに神社仏閣、家相風水の役割があるように思う。
いずれにせよ、信仰心は持てど宗教には嵌まらないのがいいように思うが、信仰心も私のように、あちこち自分の都合で、よいとこ取りするのも考えものである。
いずれにせよ、人様にはご厄介、ご迷惑を掛けぬことが一番、支配と依存、利得やご都合主義で人様とはあまり深く関わらぬことがいいように思う。
荘子の山木篇にあるように「君子の交わりは淡きこと水の如し…」とあるように、家人家族においても自尊自立、プライバシーある生活を心掛けるのがいいように思う。
そんな想いに、今日も畑で畝作り、大地と天空から元気をもらい、汗だくになってシャワーを浴び、昼を食して一眠り、目が覚めてこのブログを書いている。これから、簡単に掃除をして、晩御飯の支度をしようと思う。
「自尊自立」創られた意識からの解放、離脱を願い、更なる想いに実りの秋を迎えようと思う。
人は想いに生きる。健全なる想いに生涯を終えたいと切に願う次第である。
因みに夜鶯とはナイチンゲールのことで、鳴き声の美しさが際立っている。