本能で生きる動物と違い(とは言い切れないかもしれないが)、私達人間には知性や理性があるから、何としても我欲我執から離れられない。成り行きや諦めの中に居場所を見つけるにしても自分なりの最適解を探り拘る訳で、与えられた餌をそのまま食べるような犬猫とは意識が違う。「武士は食わねど高楊枝」謂れなきものは御遠慮申し上げるのが大人の嗜みである。
そんな私達だから、与えられた時間をそのままやり過ごせない訳で、絶えず何らかの動機や目的や目的を意識して生きていると思う。言い換えれば摂食や排泄は仕方ないにしても、それ以外の所作は自我や我欲の対象になり得る訳で、誰しもが自分なりの拘りや個性に生きているのが現実である。
そんなことだから、見方を変えれば、人生は落語家の立川談志師匠が言うように、ある意味「自分なりの暇つぶし」な訳で、如何に自分なりに暇つぶしするかが人生の課題である。
確かに生きるにはパンの糧が必要だが、所詮「パンの糧はパンの糧」でしかなく、幾らでも他のものに置き換えがきく。だから、仕事を離れれば、毎日顔を合わせていても、仕事関係のお付き合いはなくなるのが普通で、社交辞令の貰い物の如く、掛け替えのないものにはなり得ない。
まあ、何事もお金に換算すれば、その時点でリプレイスすることになるから、同じ暇つぶしでもつまらないものになってしまう。だから、どうせ暇つぶしするなら、お金に換算出来ないものに時間と手間を掛けるのがいいように思う。
さらに、お金に換算できない拘りの世界を共に理解し共有する関係こそが、掛け替えのない関係になり得る訳で、その意味から趣味や道楽は持つべきである。また、生涯現役で働くにしても、金銭抜きの趣味感覚で仕事をしないと一生涯金銭の奴隷になってしまい、真の交わりの楽しみを知らずに死ぬことになってしまう。
そうなっては元も子もない。家族や気の置けない仲間や友人とのグルメやちょっとした旅などは、機会があったらどんどん参加すべきである。
特に最近はコロナや地震や戦争の影響もあって、「明日の百より今日の五十」と生活意識が大きく変わり、私的にはかなり不埒な出鱈目な生活になっているが、基本的な自分軸を失わなければいいように思う。
それにしても、時の流れは待ってくれない。すべてが輪廻転生の輪にあって、侘び寂びに拘るも最新ファッションに拘るも、時を得れば全てに意味を失う。それこそ転生してしまう訳で、そのことからしても、その時その時を大切に自分なりに納得して生きるに尽きる。
そんな想いに、改めて、今あることに感謝したい。