信頼

信頼は日常の多くのやり取りの中で得られるものである。それ故、失われた信頼を回復することは極めて難しい。不祥事や裏切りに真摯な反省が示されないと更なる不信感が生じ、回復への道のりはさらに茨の道となる。

信頼とは人との絆であり愛でもある。だから、信頼を失うことは仕事はもちろんのこと、夫婦関係や交友関係がギクシャクして社会生活が円滑に立ち行かなくなる。

特に、家族や友達との絆や愛を失うのは辛い。信頼に裏打ちされなければ愛は語るに値しないからである。世俗のやり取りに疲れ果て失望して、神の愛にすがり救いを求めるのはいいが、仮に神の愛を盾や矛に、世俗の信頼を欠くような行為が許されるとしたら、それは単なる我欲の追求であって、現実からの逃避としか言いようがない。神の愛は世俗の信頼に応え得るものである。

なぜなら、私達の日常生活は約束や合意に基づく書面なき契約行為の連続だからである。そして、それを守ることが私達の社会生活だからである。血族関係は別として、それ以上に親密な婚姻関係でさえ当事者同士の合意に基づく契約行為である。それ故、離婚は婚姻契約の解消であり、離婚後は一切の関係が絶たれることになる。正に離縁である。信頼なき婚姻関係は愛なき婚姻関係でもあるのである。

つまり、社会生活の基本は信頼関係である。信頼は相対の約束ごとを守ることや相手に誠意を尽くすことで得られるものである。不断の努力が必要なのである。しかれど、神の愛を希求する人の中には、信じれば救われるがごとく、神の愛に依存してその努力を惜しむ人が多い。信頼とは日常のやり取りの中で努力して勝ち取るものなのである。決して神の愛を待ち望んでいれば得られるものではない。日常にあって、神の愛に気づくことは多いと思うが、その愛に恥じないように、周りの人との信頼を築く努力をしてこそ、神の愛を賛美し享受できる人になれるのではないだろうか。

闇雲に神の愛を信じ賛美しても、その栄光が示されることはない。念仏にしても然りである。その慈悲や愛は、日常のやり取りの中で、周りの人との信頼を築くことで得られるものなのである。不断の努力や忍耐によって、癒やしや安らぎは与えられるものであって、安楽に座し美食に浸って得られるものは快楽である。

男は男らしく労苦に耐え責任をして家族や社会を支え、女はいつも心優しく美しく愛を表現してこそ、信頼に基づく神の愛を語り伝えていけるのではないだろうか

信頼に裏打ちされた神の愛を語り合い解き明かす一年でありたいと思う次第である。

 

jpjapon について

3匹の犬と優しいけど時々意地悪な元気なおばさんと桃やブドウに囲まれた田舎で暮らしています。音楽と写真が大好きなパソコンフリークです。日々の想いを、聖書の御言葉や御仏の教えを交えて仲間と語り合うのが大好きです。平凡な日常から垣間見る世間の出来事を、自分流に書き綴っていきたいと思います。
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