極めるとは

物事を極めることは大切であるが、これにはある意味で危険が伴う。例えば、物理的に純粋なものを抽出したりを精製したりすることを考えてみても、黒砂糖は人体に有害ではないが、精製された砂糖は有益なミネラルを取り除かれるので、多く摂取すると病気の原因になる。その分子構造は極めて麻薬のアヘンに近いと言われる。依存性も高く、胃での吸収も速いため、胃や腸の蠕動運動を止め便秘の原因でもあると言う。

食塩なども、岩塩や粗塩は多くのミネラルが含まれるので甘く人体に決して有害ではないが、精製塩は有益なミネラルが取り除かれた  Nacl と言う正に純粋な化学薬品であって、血圧を押し上げ血管を傷つけると言われている。お酒やお蕎麦なども、灰汁を完全に取り除いた純米酒や更級そばといったものは美味しいが、著しく栄養価が損なわれると言う。

つまり、味を極めることは、ある意味で病気の要因になるのである。お金と暇をかけ、私達は食文化とかグルメを追求し病気になるのである。愚かな営みと言わざるを得ない。食べ物はなるべく新鮮なものを、生で食べるに越したことがないのである。

もう一例を挙げれば、原子力開発である。原発事故を契機に、原発神話が崩れ去ったが、一部の施設で研究開発を続けることには異存はないが、制御する技術が確立されないまま、多くの危険を冒してまでも、これまで同様な社会実験をすることほど愚かなことはない。何も、欧米やアメリカ社会の傀儡的な実験国家になれ下がることはないと思う。一番大切なことは私達民族の血であり命でだからである。

このような単純な選択さえ分からなくなってしまうのが、極めると言うことなのである。「過ぎたるは猶及ばざるが如し。」とは徳川家康の名言であるが、正に、極めると言うことは諸刃の剣なのである。私達人類の歴史は、ある意味で飽くなき自由の追求と労働からの解放の歴史でもあるが、今日の私達の社会は、多くの伝統や文化から解き放たれ自由と個性を手にしながらも、その自由をもてあましているのである。

これだけ豊かで個性的な生活が享受できるにも拘わらず、多くの人が生きる目的を失っている。明日が見えない不確実な将来に不安を抱き、グローバル社会の一翼を担う民族の役割さえ見いだせないのである。

なぜであろうか。それは、私達が受けた戦後の民主主義教育に原因があるように思う。女性の権利が保障され向上したことは良いのだが、誤った権利義務を唱え、飽くなき個性と自己を追求し、自己中心的な生活に終始している人が多いのである。家や家族や地域社会や国家への奉仕し奉公するいった日本人の美徳を持った人は、極少なくなったように思う。

作家の故三島由紀夫は「自分だけのために生きられるほど人は強くない。」と言っていたが、正に、人は一人では生きられないのだから、家族や地域や国家のために生きるのであって、奉仕や奉公の心を失っては生きられない。

父親は家族のために全力を挙げて生き、それに応えるのが家族であり、家庭は社会の最小単位として地域社会を創り国家を形成するのである。私は右翼ではないが、その意味で、天皇陛下は私達の心の拠りどころであり民族の象徴なのである。

以前、ある教会の牧師が天皇の戦争責任に触れ、イエスキリストの世界観の正当性を主張していたが、停戦とは言え未だに戦闘状態から抜けきれない中東イスラエルの状況を見る限り、神の国を信じ、その教えに従って生きるも、天皇を中心とする国家社会の伝統や文化や習慣や法律に沿って生きるも、共に自らを他者に委ねることからして、同じことのように思えるのである。つまり、自分に生きるのではなく、国家・社会のために、家族や友人のために、見返りを得ずして生きることは、決して主イエスの教えに生きることと相反することではないと思うのである

それ故、現実を逃避するかのように、闇雲に念仏や祈りを捧げ、教理教典に生きることを極めてみても、いつしかそれは自画自賛の世界を彷徨うことになってしまうような気がするのである。ここに信仰を極めることの危険性が存在する。

極めるべきことは、今ある自分に感謝し、その関係性の中に自らを活かして生きる知恵と持ち、仕事を通して公に仕える奉公の心を極めるこのではないだろうか。

jpjapon について

3匹の犬と優しいけど時々意地悪な元気なおばさんと桃やブドウに囲まれた田舎で暮らしています。音楽と写真が大好きなパソコンフリークです。日々の想いを、聖書の御言葉や御仏の教えを交えて仲間と語り合うのが大好きです。平凡な日常から垣間見る世間の出来事を、自分流に書き綴っていきたいと思います。
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