「人間は考える葦である」とは、パスカルが「パンセ」に残した名言である。デカルトは、すべてを偽とする中で、自分だけはなにものかでなくてはならないと言う確信を、「われ思う、ゆえに我あり」という言葉に託している。
共に、私達の思考や想いを書き残した名言であるが、「なぜそう想うのか」という問いの解にはなっていない。私としてはそれが問題なのである。想いは果てしなく、いくら語っても語り尽くせないからである。
人は、想いの中に生きている。しかし、その想いはやっと手にした愛をも超える想いである。私達はその想いの中に何を求めているのだろうか。さらなる快楽であろうか、それとも永久の安らぎや癒しなのであろうか。
想いを語り共にする喜びは、何事にも代えがたい。しかし、その想いは取り留めもない。なぜ、そう思うのか分からないのである。欲張りと言われれば、それまでであるが、生きている限り、想いは果てしなく尽きることはないことだけは確かである。
そんな想いを共にして、日常をクリエイティブに生きていけたらと想うのである。